面と向かって話をしよう

多くの男性はこういうことができない。私たちはみな、仕事以外で他人とつながることができないし、仕事に無関係な会話をすることができない。通りすがりの他人と、穏やかに笑顔で天気の話などをするということは、とても苦手だ。 

 

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

 

もっと、仕事以外で、つながろう。

もっと、仕事に関係ない話をしよう。

もっと、通りすがりの人と、笑顔で天気の話をしよう。

読みながら、だんだん元気になってくる本。

 

 

岸さんの言う「寄せ鍋理論」がいい。

私が冗談半分に「寄せ鍋理論」と名付けている理論がある。たとえばひとりの友人に、いまから私と話をしましょう、そのための時間をください、と言ったら、不安になって警戒されるだろう。でも、いまからおいしい鍋を食べませんか、と言えば、ああいいですね、行きましょう、ということになるだろう。

人と話をしたいなと思ったら、話をしましょうとお願いせずに、何か別のことを誘ったほうがよいのだ。

人はお互いの存在をむき出しにすることが、ほんとうに苦手だ。私たちは相手の目を見たくないし、自分の目も見られたくない。

 

繊細、というか、大事だなあ~と思う指摘。

私には子どもができない。重度の無精子症だからだ。あるとき連れあいが、病院から検査結果を泣きじゃくりながら持って帰ってきたとき、私はその話を聞きながらぼんやりと「おれ安全だったんや。結婚する前にもっと遊べばよかった」と思っていた。

いや、そうではなく、もっと正確にいうと、「これはネタにできるな」ということを考えていたのだ。

咄嗟に、無意識に、瞬間的に、その話をネタにすることで、どうにかそのことに耐えることができた。

 

そうなんだよな。

そういう部分にどこまで目を向けて、見落とさないようにできるか、なんだよな。

難しいけど。

 

よくある「多様な価値観が大事」に対する見方にも共感した。

私たちは「実際に」どれくらい個性的であるだろうか。私たちは本当に、社会的に共有された規範の暴力をすべてはねのけることができるほどの、しっかりとした「自分」というものを持っているだろうか。

むしろ私たちは、それほど個性的な服を着ることよりも、普通にきれいでかわいい服を着て、普通にきれいでかわいいねと、みんなから言われたいのではないだろうか。個性的であるということは孤独なことだ。私たちはその孤独に耐えることができるだろうか。

そもそも幸せというものは、もっとありきたりな、つまらないものなのではないだろうか。

 

「孤独」をキーワードに、断片的な話が、いくつも出て、あとがきも染みた。

でも、たしかに一方で、ひとを安易に理解しようとすることは、ひとのなかに土足で踏み込むようなことでもあります。

そもそも、私たちは、本来的にとても孤独な存在です。言葉にすると当たり前すぎるのですが、それでも私にとっては小さいころからの大きな謎なのですが、私たちは、これだけ多くの人に囲まれて暮らしているのに、脳の中では誰もがひとりきりなのです。

私たちは生まれつきとても孤独だということ。だからこそ、もう少し面と向かって話をしてもよいのではないか、ということ。こんなことをゆっくり考えているうちに、この本ができました。

 

岸さんが、よく例えに出す、「大阪のおばちゃんたち」なら、この本について、どう話すだろう。

「たしかに孤独かも知らんけど・・、でも、今日はあったかいな。昨日ぎょうさんフトン被って寝たさかい、暑かったわ。けど、午後は、ちょっと冷えるかもな。あ、それからな・・・」

みたいな感じか。

 

このナチュラルに、他愛ないことを、延々と話し続けられる能力。これを、「会話の内容自体には大きな意味はない、純粋に距離を縮めるだけの会話」という意味で「純粋会話」と言語化できそう。「おばちゃんグルーミング」という言葉でもいい。

おばちゃんグルーミング。

 

こういう練習、しよう。