凹んだままの「塑性」でいい

理研究家の土井善晴さんが推薦されていたので、探して購入した。期待に違わぬ、とても参考になる一冊だった。

塑する思考

塑する思考

 

最初はタイトルの読み方すらわからなかった。「そ」する思考、と読む。不勉強で「塑」という言葉そのものを知らなかった。

 

「柔軟さ」には2種類ある

著者のグラフィックデザイナー、佐藤卓(たく)さんによると、「柔」、しなやかな柔軟さは、「弾性」「塑性」という2つの性質に分けられるとのこと。

弾性とは、外部から力が加わって形を変えても、その力がなくなれば元の形に戻ろうとする性質。

対する塑性のほうは、外部からの力で凹むと、そのままの形を保つ性質。加わった力次第でそのつど形状を変化させる。

 

 「塑性」こそ大切

粘土のように柔軟に形を変えて、その場に合わせていく。ふん、ふん、と読み進めていくと・・。

塑性を人生になぞらえてみると、自分の形などどうでもよく、そのつど変化してもかまわないのだ、となり、そんな投げやりな生き方でどうする、もっと自分を大切にしろとお叱りを受けかねない。

 

しかし、そもそも自分とは何なのか。自己意識はどこから来て、なぜ自分は今ここに存在するのか。人生のそんな基本についてまるでわかってない自分に、どんな形があるものなのか。

 

分からないまま自分など考えないのが、自分にとっては良好な状態らしいと、この歳になって気づき始めている。何を考えているにしても、すでに考えている自分が存在するのだから、「自分」なんてまったく気にかける必要はなく、そのつど与えられた環境で適切に対応している自分のままがいいのではないかと。

 「自分」など考えない。

その都度、与えられた環境で適切に対応している自分のままがいい。

なるほど、確かにそれでいい気がする。

 

自分の好きで世の中まわってない

とは言え、自分の世界や、得意分野を持ち、自分のフィールド(らしきところ)で活躍している人の、磐石の安定感もよく感じるところではある。

ごく稀に、個人的な趣味をそのまま仕事として成立させている人がないではありませんが、世の中のほとんどの仕事は不特定多数の人々のための営為であって、自分の「好き」のために世の中が回っているわけではない。

 そして下記のくだりも大変考えさせられた。自分自身、後輩に対して「お前は何をしたいのか」「自分の好きなことをやればいいんだ」と助言している同僚たちの姿を何度も見ている。

自分の「好き」を基準にしてしか仕事ができない、つまり「我欲」をコントロールできないまま社会人を続けようとしてうまく行かずに悩んでいる人は少なくない。そんな悩める人に向かって「好きなことを自由にやればいいんだよ」などと、世間は無責任な追い打ちまでかけるので、悩みが解決するはずがない。

 その通りだ!と思わず感じた。

いままで、こうした無責任な追い打ちに、なんか変だなーと感じてはいたが、それはこういうことだったんだ、とはじめてわかった。

 

まわり優先 客観的に理解せよ

やがて、佐藤さんによる「仕事の本質」が明かされていく。

常に相手や周囲の状況を優先し、それらを客観的に理解する習慣がつくと、厄介な「自我」の呪縛から解放され、楽になり、なすべきことが浮き上がってくる。

 

なすべきことについて、できるだけ客観的に思考し、見極めるところに、その人ならではの個性が出る。

 確かに、個性は「出す」ものではなく、「出る」ものと考えたほうが、気が楽だ。

長年デザインにたずさわってきて、仕事というものの基本は「間に入って繋ぐこと」だと確信するようになった。

 

自分で自分は丸い人間であると表明するなら、たちどころに丸い仕事しか頼まれなくなる。私は赤いと言明したとたんに、赤い仕事しか来なくなる。

そうだよな、自分を限定することになってしまうよな。自分のこと、本当はよくわかっていないのに。

 

 自然の移ろいとともに「塑性」で

人生は自然の豊かな移ろいと共にあるものなのに、人生をかたくなに変えず、丸く、赤く生き続ける覚悟をする必要や意味はどこにあるのか。

 深く共感した。

柔軟に、求められているものを、まわりを優先して、できるだけ客観的に。

頭の中では、物と物をつなぐために、その時々に形を変える、粘土の「塑性」をイメージして。

「塑」する思考で、参りましょう。