「ひとつの色の人間」じゃない

TBSアナウンサー林美雄さんの1970年代前半ころからのお話。 久米宏さんや、小島一慶さんなどと同世代のかた。

優秀な同僚との才能の差を思い知らされ、たいした努力もしないまま競輪と麻雀と映画の日々を送る窓際アナウンサー。

林美雄にはわかっていた。自分の番組が面白くないことを。そして自分は久米宏小島一慶のようには決してなれないことを。

やがて林さんは映画「八月の濡れた砂」や、ユーミン、日活ロマンポルノなどをラジオ番組で紹介し始める。

「 自分の番組『パックインミュージック』でそうした映画についてしゃべったら、その反応がよかったということ。それはぼくが探してきた映画の話がよかったとかいうのでもなんでもなくて、みんながいいものを探し求めていた時期に、ぼくがちょっと紹介してあげたというだけ。あくまでも、ぼくは紹介者」。

林パックにはマニアックな映画好きの若者が数多く集まっていたものの、じつは林自身はマニアではなかった。映画業界や音楽業界の若い才能を紹介することこそが自分の仕事であると考えていたのである。

驚くべきことに、のちのスーパースター松任谷由実はデビューからおよそ一年半もの長きにわたって、林パック以外のメディアではほとんど取り上げられなかった。

ただひとり林美雄だけが、デビューアルバム「ひこうき雲」を一聴して「この人は天才です!」と絶賛。「八王子の歌姫」と命名し、ほかの番組が無視する中を、前週は三曲、今週は四曲、翌週は録音したての新曲、と執拗に紹介し続けた。

そのあと林パック最終回、「歌う銀幕スター夢の狂宴」開催などが続く。長谷川和彦さんの仕切りって、こういう感じだったのかと思う。

70年代の「なんでもありの勢い」みたいな話。そのあとの、林パックだけでは爆発的には売れなかったユーミンの方向性の話にひきつけられた。

ユーミンは自分の未来をはっきりと見通していた。 これまでにユーミンの曲が持つ真の価値を見抜いた人間はごく少数であり、「ひこうき雲」も「MISSLIM」もまったく売れなかった。 アルバムを二枚作って、少女時代に書きためておいた詞のストックも尽きた。

すでに自分はアマチュアではない。売れる作品を作らなくては生活していけない。 キャッチーでダンサブルな曲を作ろう。コンサートも派手にしよう。 自分自身の感覚や繊細な心の動きよりも、むしろ多くの人が共感できる明快なポップソングを書こう。 ユーミンはそう考えて「ルージュの伝言」を作ったのである。

ただ、林パック支持者はサードアルバム「COBALT HOUR」以後を評価しなかったという。そのときにユーミンが言っていたという話がいい。

「今度のアルバムはユーミンらしくないってみんなは言うけど、ユーミンらしい私って、どんな私なの?私はひとつの色だけの人間じゃないんだから、私がやることは全部ユーミンらしいんだよ」

「アーティスティックなものと、ポップス的なものは、両方とも自分の中にある要素。どのくらいのバランスで出てくるかがアルバムによって違うだけ」

ユーミンの決意、格闘が正しかったことは、その後、すぐはっきりする。

もちろん、アーティストの中には、ある種の路線変更で支持を失っていく人もいるだろう。ユーミンはもともと途轍もなく頭がよく、才能が並外れていただけなのかもしれない。

ただユーミンが時折話している言葉を改めて思い出すと、そもそもバランスのとてもいい人だと感じる。 「『この季節ソング』って、作っておくと、おトクよ。毎年、思い出してくれる人が一定数いるから」(『恋人がサンタクロース』とか『スキー天国、サーフ天国』のことかな) 「深夜のファミレスで若い女の子たちの話を聞いて作詞のヒントを探している」(80年代終わりころ、よくこの話、聞いた)

思えば、林さんも、自分のアナウンサーとしての生きる道を、試行錯誤のなかで、少しずつ築いたわけで、頭のいい人はそういうものなのかもしれない。 そしてユーミンの林さんに対する下記の言葉に、深く共感した。

「林さんとの関係は『旅立つ秋』を贈ったくらいまでがタイトだったけれど、私がメジャーになったからといってつきあいを変える人ではなく、会えば以前と同じ感じで接してくれた。少数が支持しようが、多くの人が支持しようが、林さんにとっては関係ない。かといって、自分はまだ誰も気づかない時に(ユーミンを)見つけたんだぞという振りかざし方もまったくなかった。林さんはそういう人」