50年前の「放送免許取消の示唆」

この本の前半部で「そんなことがあったのか」と感じた部分があった。 50年ほど前、1967年から1968年ころのTBSに対する「放送免許取消の示唆」事件だ。

TBSテレビのニュース番組「ニュースコープ」は1967年7月に人気キャスターだった田英夫北ベトナムハノイに送り込んだ。アメリカ軍の北爆の実態を報道するためである。

田英夫が見たハノイ市民の表情は穏やかで、海の表玄関ハイフォン港にはソ連や中国、ポーランドの船から大量の援助物資が水揚げされていた。

概して言えば、北ベトナムは余裕を持って北爆に立ち向かっている。北ベトナムはアメリカに屈服しない。アメリカが北爆を停止しないかぎり、北ベトナムは和平交渉には決して応じないだろう。二十五日間の取材の中で、そのような感触を得て帰国した田英夫は、取材の成果を「ニュースコープ」で一週間にわたって伝えた。

放送から8日後、自民党の橋本登美三郎さん、田中角栄さん、新谷寅三郎さんらが、TBS社長を自民党会に招き、田英夫さんの番組を槍玉に挙げたという。TBS社長はこの圧力を一度は突っぱねた。

しかし翌1968年3月10日、TBSディレクターが成田空港建設反対運動の取材で、反対集会に行こうとする農家の婦人7人と、3人の青年、プラカードなどを取材用マイクロバスに乗せたことが、自民党から指摘されたという。

プラカードの一本には全学連と書かれており、三人の青年は反戦青年委員会のカメラマンだった。

この小さな出来事に自民党が難癖をつけた。プラカードは板を外せば角材であり、角材はすなわちゲバ棒という武器になり得る。公正な報道を使命とする報道機関が、こともあろうに全学連の凶器であるゲバ棒の運搬に協力するとは、と大騒ぎしたのだ。

事件の翌日にあたる3月11日には、早くも小林武治郵政大臣がTBS社長に電話をかけている。

さらに12日には郵政省電波監理局が調査の名目でTBSに警告を発し、夜放送予定だった「カメラルポルタージュ 成田24時」は急遽放送中止に追い込まれた。

13日には参議院自民党総務会で玉置和郎議員がTBSを名指しで非難、

15日付の自民党機関紙「自由日報」には「TBSが角材を運搬」という見出しの記事が出た。

3月22日、ついにTBSは関係者の処分を発表する。(該当の)ディレクターが無期限の休職を命じられたほか、過酷ともいえる大量処分が行われた。

3月26日、夜、自民党幹事長、福田赳夫は記者団とオフレコ会見をした。 「こういう局には再免許を与えないことも考えなくちゃいけない」 この発言が、何らかのルートで(TBS社長の)今道に伝えられた。

翌27日の朝、田(英夫)は今道に社長室に呼ばれた。今道は福田のオフレコ発言を田に告げた。やや切迫した感じだった。 「今まで俺も言論の自由を守ろうと抵抗してきたけれど、俺の力ではどうにも抵抗しきれない。これ以上やるとTBSが危なくなる。残念だけど今日やめてくれ」

成田事件の関係者への厳罰と田英夫キャスターの降板は、TBS上層部が政府および自民党に完全に屈服したことを意味する。

反対派市民の「武器になりうるもの」搭載という、「軽率」はある。 すると、もともとの「許認可事業としての放送」という本質が、より出てしまうのは、50年前も今も変わらないと改めて感じた。