「テレビ」を考え抜いた男

久米宏さんが、自分の足跡を追うことを通して、「テレビとは何か」「テレビと時代とはどう関わってきたか」について考えた本。 学ぶ点、参考になる点がありすぎる、すごい本。

テレビは「映っているだけ」で成立する

「ぴったし カン・カン」のときの坂上二郎さんを見ていたときの発見。

初めて気がついた。テレビはしゃべらなくても、映っているだけで成立するのだと。テレビでは出演者がネクタイを緩めた瞬間、「暑いなぁ」か「緊張するなぁ」か「鬱陶しいなぁ」か、視聴者にはすでにある種のメッセージが伝わっている。

僕は番組ではしゃべる量を極端に減らすようにした。たとえば、ゲストが登場して隣の席に座るまで、ただじっと眺める。すると、そのほうがゲストの存在感が伝わることがある。

ラジオでの沈黙には恐怖感があったが、ちょっと黙ってみた。すると、なんとなくリスナーが聞き耳を立てている気配を感じる。こちらが絶えずしゃべり続けていると、リスナーは安心して聞き流すが、黙るとかえって注意を払ってくれる。

ザ・ベストテン」こそ、時事的・政治的な情報番組

ザ・ベストテン」の魅力はやはり何といっても生放送にあった。

1983年9月1日、ソ連領空内に侵入した大韓航空のジャンボ機がソ連の戦闘機に撃墜された事件が発生した。航路を見れば、操縦ミスなどではなく意図的な領空侵犯としか思えない。なのに、どのニュースもそれには触れていない。それなら僕が指摘してみようと番組冒頭に話した。

大韓航空機が樺太上空で墜落した模様です。それにしても、どうしてこんなにソ連領空内を奥深く侵入したんでしょうね」

僕にとっては「ザ・ベストテン」は時事的、政治的な情報番組であり、のちの「ニュースステーション」のほうがニュースを面白く見せることに腐心したぶん、ベストテン的という意識が強かった。二つの番組は、僕の中で表裏をなしていた。

ニュースとスポーツがもっとも「テレビ的」

テレビとはいったい何だろう。

たとえばテレビドラマを考えた場合、その迫真性では、映画館で見る映画、劇場で見る演劇には、かないそうにない。

音楽は生のライブに到底及ばず、好きな曲だけ聞くならCDのほうがいい。

ニュースにしても、信頼度はまだまだ新聞のほうが高い。

テレビの特性は映像を伴う生放送にある。次に何が起こるかわからないというのが、生の特性であり、テレビの本質だ。ならば視覚に訴える情報を生で伝えるニュースとスポーツ、それがもっとも「テレビ的」ではないか。

テレビにはウソが多い

「テレビでしかできない番組」という課題とともに、頭にあったのは、テレビに対する反省だった。テレビにリアリティーがないのは、そこにウソが多いからだ。

たとえばワイドショーの司会者が悲惨なニュースを眉間にしわを寄せながら深刻に伝える。ところがCMを挟んで次のコーナーでは、ニコニコ笑いながら「今日はにぎやかなお祭りがありました」と伝えている。ここには明らかなウソがある。見ず知らずの他人に寄せる同情には限界がある。人は他人の不幸をどこかで面白がったりする傾向さえあるのだから。

「誰もが自由にものを言える社会」

放送はモノを生み出すことはできない。できるのは、考え方や感じ方、生き方の小さなヒントを伝えること、そして視聴者に少しでも得をしたと感じてもらうことくらいだ。

何をもって「役に立つ」とするか。僕が理想として思い描くのは「誰もが自由にものを言える社会」だ。

TVスクランブル」のテーマは実はそこにあった。日本人はもっとてんでバラバラな方向に生きればいい。「自分はこう思う」と自由に発言すればいい。そのことに気づいてほしくて、僕は極論も口にした。

自分の番組をすべての人に見てもらうことは不可能だということに気づいた。100人のうち15人が見れば視聴率は15%になる。85人には嫌われてもいい。15人に好きになってもらうには、みんなに好かれようとしてはいけない。実際は、85 人にそっぽを向かれるのは恐ろしい。思わずたじろいでしまう。だからこそ嫌われることに耐える勇気と覚悟が必要だった。

テレビは軽やかにつくれ

(スタッフに)繰り返し言ったのは「裏番組をちゃんと見たことがあるか」「街に出て歩いているか」。スタッフたちは自分が担当する特集にどっぷり浸かり、それ以外のことが考えられなくなっていた。世間でいま何がはやっているか。裏番組で何を放送しているのかすら知らない。それでは視聴者をひきつける番組をつくることができるはずがない。

余裕が出てくると、物事を捉える視点が変わる。深刻な目つきで見つめれば真実が見出せるわけではない。

僕が座右の銘としているジャーナリスト大宅壮一氏の言葉がある。「風俗を語るときは政治的に語れ。政治を語るときは風俗を語るように語れ」。政治や経済を語るときにもっと気楽に構えなければ本質は伝わらない。

7時間以上の睡眠をとるようにした。睡眠不足は生放送に一番たたる。反射神経が働かなくなる。

体調が傾くと気力も衰える。テレビの生放送は気力なしにはできない。

テレビの出演者は元気で快活でなければならない。くたびれて機嫌の悪い出演者を視聴者は許してくれない。僕は毎日、目覚めた瞬間、「今日も午後10時に元気で平静でいられるように」と念じていた。

久米さんのこだわり

第5章「神は細部に宿る」の各項目だけは、ちょっと違和感ももった。「僕ほど映像のつくりにさまざまな角度から細かな注文をつける出演者はいなかった」「番組は一人の感覚、感性によって統一されていたほうがいい」と振り返っている。

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  • セットづくりの鍵となった言葉は「奥行き」。奥で何かしていると好奇心をかき立てられる。
  • ブーメラン形のテーブル。出演者が横一列では話せない。丸いテーブルでは視聴者不在。最終的にこの形。
  • 番組であえて採用したのは、ボードやフリップに手書きで説明する方法。人間の頭脳は一度に多くの情報を与えられても処理しきれない。紙芝居のようにひとつひとつ順を追って見せて行く方が頭に入りやすい。
  • イタリアンソフトスーツの着こなしを取り入れた。
  • 話し言葉でニュースを読む。「投棄した」は「投げ捨てた」、「回想する」は「思い出す」、「成り行きが注目される」は「どうなるんでしょう」。形容詞は名詞の一番近くに。主語はなるべく前。「さて」「ところで」「一方で」といった転換の接続詞はなるべく使わない。
  • リポートがわかりにくいときは「いまのリポート、よくわかりませんでしたね」。リポーターを傷つけ番組の自己否定にもつながるが、頭の中の半分は見ている人の立場。
  • 情報の少ないアップのときは声を落としていい。ワイドになると自分以外の情報が画面に入ってくるので話す音量大きめ、内容少なめ。
  • 「ニュアンスのある表情」。温かみと魅力、やや明るさ、すっと自然にそこにいる無表情。
  • コメントを口にするときに何より優先したのは「まだ誰も言っていないことを言う」「誰も考えていない視点を打ち出す」。(ゴルフのスター選手のトレーニングの過酷さ→「だってマスターズで優勝すれば賞金2億円ですよ」、自民党議員の不祥事に幹事長が木で鼻をくくったような発言→「まあ仕方ないでしょ。党の幹事長なんだから。こういう発言をしなかったら、立場がないんでしょうね」)
  • 自分が着る服にペンの色を合わせる。

話し言葉、アップとロングの映像情報量、コメントの独自性のこだわりは、とても共感した!

テレビでわかった気になるな

テレビには政治家の言葉、声、話しぶり、表情、立ち居振る舞いのすべてが映る。そこで自分が目にしたものは、とりあえず本当のことだと受け止める。本当のことをすべて見たら、理解したと思い込む。

それは錯覚。映っているものはこの世に存在する。しかし存在するものを見たことは理解したことにならない。

映像は確かに見ている者の生理や潜在意識にまで訴える強い力を持つ。映ったものを見て「わかった」と思わせるところはテレビの落とし穴。

テレビに映ったからといってそれは真実ではない。映ったものをすべて見たからといって、それを理解したことにはならない。

「ちょっとやってみるか」が結構大切

ビートたけしさんが、漫才をするときの自分の反射神経の衰えを話すときのような、久米さんの率直な思いも、とても響いた。

自分の能力の衰えも自覚せざるを得なかった。「ニュースステーション」はキレとスピード、テンポで見せる番組だ。50歳を過ぎたころから記憶力と集中力と瞬発力が落ち、その場に最適な言葉が出てなくなった。

ただ、前を見よう、というか、機嫌よく、元気に行こうモードも維持されているから嬉しい。

成功には、固定化、形骸化のリスクがつきまとう。僕のマンネリ打破の方法は、番組を初めて見る人を常に意識すること。

人間は、生まれる場所と時を選べない。「自分の人生すべてが、偶然そのものなのだ」の考えにとりつかれている。偶然乗り合わせた舟を懸命に漕いできただけ。

「とにかく、ちょっとやってみるか」これは結構大切なのだ。そして乗りかかった舟はとりあえず一生懸命漕いでみる。それぐらいのことしか、人間はできないのではないか。

話がすべて具体的で、サービス精神旺盛で、(自分自身への目線含めて)観察力も鋭すぎるので、すばらしい!