戦うな 調和せよ
なんというか、自分の「うまいこと、自分をだまして、トクしてやろう」感を打ち破られる。とても参考になる指摘が多くあった。
人生が変わる! 無意識の整え方 - 身体も心も運命もなぜかうまく動きだす30の習慣 - (ワニプラス)
- 作者: 前野隆司
- 出版社/メーカー: ワニブックス
- 発売日: 2016/01/26
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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脳には司令塔のような意識は存在しない。無意識がやってくれたことを、意識はあとづけで受け取って、エピソード記憶するだけ。自由意志の力で身体を動かしているというのは勘違い。
社長(意識)をすごく立ててくれる有能な社員たち(無意識)がつくる会社、それが人間。ワンマン社長は自分が司令塔だと思っているが、それは錯覚。
・・というもの。アメリカ人に話すと、「あり得ない」と嫌がられ、インド人には「そりゃそうでしょう」と受け入れてもらえるそうだ。
仮説提唱者・前野さんが、「無意識」をキーワードに話を聞いていく感じ。
まず、心身統一合気道会、藤平信一さんの言葉。
対戦相手と一体になれ
(合気道だけでなく)例えば野球も、基本的には相手チームと戦っているわけだが、対峙する意識が強いと気が通わなくなる。(LAドジャースで指導中)
ちょっとした心の変化で一体になったり、バラバラになったりする。周囲と一体になっているときがベストコンディションのとき。野球でいえば「打とう」という気持ちが強すぎると気が通わなくなる。
「心の倉庫」にプラスの言葉を
先代は無意識のことを「心の倉庫」と呼んでいた。「あなたはダメだ」「あなたにはできない」と言われ続けていると、最初は意識で反発するが、そのうちに無意識に届いてしまう。
心の倉庫にマイナスなものを貯め込んでおきながら、プラスのものを出そうとするのは無理がある。
テレビを見るにしても、流しっぱなしにしないほうがいい。マイナスな内容のニュースに、意識を向けずに、垂れ流しているのは、じつは怖いこと。
できるかぎりマイナスな単語や表現を使うのをやめ、すぐにプラスの言葉に置き換えて訂正する。
毎晩、その日に「できたこと」「よかったこと」を例えば5つ以上記録したり、思い出す習慣をつけてもらう。
光明寺僧侶、松本紹圭さんの言葉もいい。
すべては縁で起こっている
私たちは日常、わかったような顔をして、この世界を自分の意思で生きていると思っている。本当は、lifeがlifeを生きている、とでも表現するしかないような、不可思議な世界にいる。
怒りの感情が湧いてくるのを止められない。だけど、すべては縁で起こっていると気づいていれば、いちいち、とらわれずにすむ。
怒りに乗っ取られない。「なんだか怒りが湧いてきたようだねえ」と客観的になれる。
すぐ手放すようになる。だって自分の怒りじゃないんだから。「手放す技術」と呼んでもいい。
株式会社森へ、代表取締役、山田博さん。そう、「自分をマインドコントロールして、効率的に、気楽に生きよう」とか、思っちゃうんだよな。参考になる話もたくさん。
「コントロールしたい」に注意
全部わかっちゃいけない気もしている。理屈やメカニズムがわかると、意識的にコントロールしたいということにつながりやすい。
「わかろう」とする好奇心自体はいいこと。でも理解のあとに「コントロールしたい」という欲望を人間は抱きやすい。そこは十分気をつけるべき。
考えること自体を否定はしないが、大事な部分を失って、結局また効率よくやろうという方向に行くことには違和感がある。
意味を探してわかった気になるな
感覚は、ただ受け止めることが大事。あとで、ひも解かれるから。
評価や判断をしないで、ただそのままにしておく。意味はあとからついてくる。
何かのサインには名前をつける
強く感じていて、そこに「ある」んだけれど、意識化しないと「ない」のと同じことになってしまう。そういうものがあまりに多い。
何かのサインだと思ったときに、ひとまず名前をつけておく。
ただ名づけて、ときどき眺めている、そうすると、ある日パッとわかる瞬間が来る。あるタイミングで、無意識からフッと入ってくる。
感覚を開くには「ゆっくり」
感覚を開くコツは「ゆっくり」。スピードを落とすこと。ふだんやってることのスピードを半分にしてみる。
歩く、話す、呼吸、食事。なんでも構わない。
ただし1か月は続けてみて。そうすれば、感覚はかなり開く。直感も鋭くなるはず。驚くくらい違う。
東大病院循環器内科助教、稲葉俊郎さん。「意識・無意識という二元論的な表現に注意」という話、考えさせられる。医師としての、広い意味での医療の話もとても面白い。
みんな無意識で探りあっている
コミュニケーションって、常に相手に選択されている。「この人なら、この話をしても大丈夫だ」とか「この人は絶対バカにするからやめておこう」とか、そういうことをみんな無意識の中で探りあっている。
繊細な表情、皮膚感覚で「この人は話してもOKだ」と無意識に判断できると話してくれる。
聞いているときの反応もすぐ察知されて「冗談だけどね」って打ち切られてしまうこともある。
体や心を全体論的に見よう
ときどき体も心もバランスが崩れて、不調和や不均衡になることがある。西洋医学では、そういう不均衡な状態を「病気」として名前を決めて、そういう悪い相手といかに戦うかという臨戦態勢に入る。
そうではなく、体や心を全体論的に見て、「調和して完全だった均衡が崩れたのだから、調和の状態に戻っていくにはどうすればいいのか」という発想をすればいい。
西洋医学の対応をしたほうがいいケースも、もちろんたくさんある。ただ、現在は西洋医学的な世界観があまりにもその他を凌駕してしまって、人の体を常に戦場のように扱っている。
補完代替医療、統合医療への揺り戻しが来ているのは、ここに原因がある。
でも「気の力で倒す」とか「漢方やハーブの力で癌を撲滅する」という西洋医学的ないい方をしてしまうと、結局また永久に戦わなければならなくなってしまう。
病気が治るか治らないかは本質ではない。全体としての調和こそが本質。
癌も同じ。「私」という存在全体を殺さないために、癌化した一部の細胞が、重要なことを教えようとしているととらえることができる。その知らせにちゃんと気づいて、また調和の状態に戻れば、その個体は死なずに済む。生命的な戦略としてはすごく有効。
意識・無意識の二元論、使わない
ぼくは意識、無意識という二元論的な表現は使わない。西洋的な発想に巻き込まれやすくなってしまう。
東洋的には、表層意識・深層意識という階層が、色のようにグラデーションでつながっているとみなす。
自然に触れることは医療
自然に触れると、誰でも原始感覚が立ち上がってきて、必ず、これが地球だと思い出せる。自分の体が、本来あるべき場所に置かれていることから来る「生命記憶」とでも呼ぶべきもの。自然治癒力も呼び覚まされるし、自然に触れることは、広い意味での医療。
無意識とは自然である
日本人には「おのずから」生まれ、「おのずから」死んでいくという世界観がある。
(前野隆司さんの)受動意識仮説のなかの無意識は「おのずから」だと思う。これは同時に、自然そのものでもある。その自然に意識や人生が乗っているのだという解釈。受動意識仮説は、どこか日本人のポエジーと共鳴している。
ぼくにとっての無意識、深層意識は、まさに自然そのもので「おのずから」あるもの。自然という遥かな命の流れがある中で、特定の世界観は部分に過ぎず、無意識は、それ以外の膨大な世界。
こういった話、スピリチュアルなもの、オカルトなどになりがちな話だが、なんというか、膨大な「わかってない部分」がある、という前提になっているのが、とても心地よく感じた。