弱点が強み 二面性をよく見て

池谷裕二さんの中村うさぎさんとの対談。池谷さんのサイトでおすすめされていて、読んだ。

脳はこんなに悩ましい(新潮文庫)

脳はこんなに悩ましい(新潮文庫)

そうなのかーと考えさせられる記述がいくつもあった。

他人の失敗を脳は嬉しがる

一般的なねたみは、前帯状皮質などの「不安」に関する脳部位が関係している。

その実験ではもっと先まで詰めていて、「成功していた彼が失墜した」と伝えた。そうしたら、「報酬系」が活動した。つまり快感。他人の失敗を脳は嬉しがる。

他人の失敗を喜ぶなんて一般には醜い心だといわれる。でも、脳は確かに喜ぶようにプログラムされている。そうなんだからしょうがない。

所持金が増えれば「報酬系」が活動する。お金のことばかり考えるのはいやらしい、意地汚い、と咎めても仕方がない。装置として脳はそういう仕掛けになっている。

個人の快楽要求を基盤としながら、結果として、スムーズで総体的な人間社会を形作っていく。これこそが脳の面白い働き。

無意識の支配が圧倒的

無意識に処理するように脳回路がデザインされている。

円滑に幸せに生きるためなら、知らないほうがよいこともあるのは社会の道理。

「意識ってあまり重要ではない」という言い方もできる。私たちは「意識」を崇高なものとして大切にしたがる傾向があるが、本当を言えば、無意識の支配のほうが圧倒的。

脳の性差を意識しすぎないで

脳の性差はそんなに大きくない。行動や認知の大半は、男女に関わらず一緒。性差は日常的には微細な差でしかない。

脳はその「差分検出器」という性質上、「同じ」よりも「違う」に目が行きがち。だから男女が目立って見える。

「あまり違わないんだ」と考えて、いたずらに差別や偏見を煽らないように気をつけたい。

プラシーボ効果を消す化学分子

プラシーボの投与前に、モルヒネの作用を打ち消す薬物・ナロキソンを投与すると、プラシーボ効果が消えた。

「信じる力」がナロキソンという化学分子で失効されてしまう。奇妙な感じが残る。物質世界と精神世界という、あまりにも質的に異なる両世界の接点がここに垣間見える。

人格は一定しない

身体性ってすごく大切。今、この部屋にいて、向かい合って座って、目を見て話しているという、この設定が重要。

「心は環境に散在する」という結論に行き着く。「私」という確かなものがあって環境に対峙している構図ではなく、環境の影響を思いっきり受けてそれによってはじめて「私」が形作られる。

一貫した人格を「格好いい」と評して理想追求すると、息苦しくなってしまいそう。

睡眠リセット力はすごい

脳の神経細胞の結合度は昼間にどんどん強まる傾向がある。寝ているときには、昼間に強まった結合が弱まる。睡眠のリセット力は想像以上にすごい。

脳は身体の形を把握していない

有名な身体感覚の実験として、ゴム製の手の模型(ラバーハンド)を目の前に置き、自分の手を隠して、模型の手と自分の手を叩いてもらうと、模型の手を自分の手のように感じる。

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脳は身体の形状を正確には把握していない。筋肉や、皮膚の感覚や、視覚で、モニターすることで、自分の「輪郭」を創造している。

状況によって体の境界が自在に変わる。この能力があるから、私たちはクルマを運転できる。運転中の身体はクルマ全体に拡張している。

進化に「目的」を見出してしまうクセ

私たちは進化の結果に「目的」を見出してしまうクセがある。「こういう結果になっているということは、きっと生存にとっての意味があるはず」とか。冷静に眺めると、進化はわからないことだらけで、「理由なんて端っからない」と考えたほうが自然なのかもしれない。

誰がどこでやっても同じように「再現」できることがサイエンスの基本。ところが進化は確かめようがない。

「適者生存」は詐欺っぽい方便。毛を失った不適者のヒトが生き残っている。

ケニアタンザニアに行ったとき、キリンに出会うのは決まって、高い木がある場所であることに気づいた。サバンナは草食動物がエサを取り合う必要がないくらい豊か。シマウマやガゼルは悠々と草を食べている。ところがキリンは首が長いために、高い木の生えたところでしか快適に生活できない。

進化の経緯は、どんなに正しそうな仮説でも、その正しさは永遠に証明できない。進化の「意図」、進化の方向性を想定して問いを立てること自体が、「進化」という巨大な怪物に比してちっぽけなヒトの脳による、限定的な思考にすぎない。

うーん、池谷さんは進化論にだいぶネガティブなんだな。

イヌやネコは自分が見えない

イヌやネコには、そもそも自分が見えていない。鏡を見ても、映っているのが自分だとわからない。自己や自我という概念がないようだ。

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人間は「言語化」で進む

中村うさぎさんは)原稿を書く前に脳内でいろいろ考え込むと思考が堂々巡りになる。しょうがないから「まあいいや」で書き始めると、さっきまで思いつかなかったアイデアがひらめく。言語化することで脳が勝手に次の段階に進んで行くのかもしれない。

言語化すると、混沌としていた脳内が次第に整理されていくのを感じる。

言葉は「ひとり歩き」する

「きれいな人を見かけると、つい目がいく」なんて言う。「きれいな人」の定義ってなんだ?むしろ「つい目がいっちゃう人」を「きれいな人」と呼ぶのではないか。身体の反応がまず先にある。

時間がない状態を「忙しい」というのに、「忙しいから時間がない」というのも不適切。

いったん「きれい」「忙しい」とラベルをつけてしまうと、概念がひとり歩きしてしまう。すると「きれいな人にうっかり目が行ってしまってハンドル操作を・・」などと、因果を逆にした弁明を堂々とするようになる。「ラベリング誤謬」と呼んでいる。

言葉をあてがうことで、それ以上深く考える必要性を排除しているのかも。言語は思考のツールであると同時に思考停止のツールでもある。

池谷さんがある病気だということも明かされる。

相貌失認症だが それも

脳の中には紡錘状顔領域という、顔を認識するための専用回路がある。それくらい脳は顔に敏感。

この回路が損傷してしまうと、顔が認識できない相貌失認症という病気になる。目や鼻や口などの各パーツは認識できるが、パーツが集合した顔を「顔」として認識できない。実は私自身が先天性の相貌失認症。

そもそも人口の2%くらいが先天性相貌失認症。遺伝性が強い。目や口元、髪型、体格や仕草や声色で、人を区別する。意外と日常生活には支障はない。多くの患者は症状に無自覚。

勘違いできる能力が重要

人間は「AならばBである」と聞くと、うっかり「BならばAである」と勘違いする。勝手に話を進めてストーリーをでっち上げてしまう。

風評被害って、この論理的な歪みがルーツになっている。

指摘したかったのは、勘違いできる能力こそが「心」の豊かさの起源になっているのではないかという点。あるコップを見て、「コップ」という概念をつくるためには、つまり「コップ」という単語を生み出すには錯誤が必須。

ヒトは「AならばBである。ならば、BならばAかもしれない」という柔軟な発想を用いることで、思考に広がりを作っている。たとえ論理性が欠如していても、思い切りのよい思考飛躍が、高度な推測や予知、創造性を生み出す。

脳のしくみ、クセ、便利なツールの二面性、一見すると弱みに見えるものが強みになる意外性。

「わかっていない、膨大な領域の存在」を常に意識しつつ、柔軟に、柔軟に、考えていかないとなー。