相撲の「底知れなさ」
今場所は毎日相撲中継を見ている。
13時のBS放送開始から、18時の放送終了まで、だいたい全部見る。
毎日ほぼ5時間、見続けていることになる。すでに11日目まで見ている。
面白い。
特に、どんどん取り組みが進む、幕下30番と十両15番がいい。
力士名鑑を見て、「こういうプロフィールの力士なんだ」などと調べながら見る毎日だ。
ただ、改めて思う。
相撲は難しい。
勝ったり負けたり、楽しくやろうと思えば、とても楽しいだろうが、ひとたび、「必ず勝たないと!」などと考え出すと、相撲はとても難しい。
相撲は、よほど力量差がないかぎり、勝ち続けられないし、負け続けることもなさそうに見える。
あまりにも、ちょっとしたこと、偶然に近いようなことで、勝負が決まってしまう。
「一方的」か「逆転」かの二択
勝負は、見た目には、だいたい極端な形で決まる。
立ち会い、一緒のタイミングでバチッと立って、両者、力を出し切って、押しあい、投げあい・・、などというパターンはあまりない。
立ち会い、いきなりうまくどこか押されて、一方的にそのまま土俵外へ、とか。
立ち会いからポンポーンと押して、勝った!・・、かと思った瞬間に突き落とされたり、とか。
「一方的な展開」か、「いきなりの逆転」という、いわゆる「両者が力を出し切った勝負」にならない相撲がやたら多いのだ。
幕下相撲あたりは、お客さんも少ない。こういう勝負が続く土俵を、ポカーンと見ている。
だから、たまに両者が力を出し合う熱戦になると、場内から拍手が出たりする。
というより、「一方的」か、「大逆転」かしか出ないから、普通の相撲だと、「ああっ!」というため息しか出ない感じだ。
「磐石」と「グダグダ」が日替わり
一方的に勝つと、素人目には、とても強く見える。
「この力士は強い!」などと思い込んでしまう。
ところが同じ力士が、次の相撲では、逆に一方的に負ける。
えっ?なんで?
ほんのちょっと、相手との立ち会いのタイミングとか、押そうと思っていたところが押せなかったとか、まわしがとれなかったとか、何かで、グダグダになる。
なにこの力士?真面目にやってんの?
そういうものだとわからないと、ちょっと着いていけないくらいだ。
ひとりの力士が、今日は磐石。あすはグダグダ。
それがデフォルトな感じ。
そういう中で、やや充実度合いが高い人が、2勝1敗、4勝2敗というふうに、負けをはさみつつ、星を伸ばしていく。
相撲という「小宇宙」の中では、誰もが、一方的な勝負か、いきなりの逆転の渦に巻き込まれている感じ。
幕下で7連勝などというのは、例外中の例外であることもよくわかる。
土俵に込められた怨念
ずっと土俵を見ていると、ひとりひとりの力士が土俵にかける、夢、希望、信念、思い、執念、意地、怨念みたいなものも、とても感じる。
幕内力士38人。十両力士28人。多くの人が意識するのは、この70人だが、その下の番付に570人(幕下120人・三段目200人・序二段200人・序の口50人)がいる。
相撲部屋に入門した人で、幕下に上がれるのが、4人に1人。
給料をちゃんともらえる十両に上がれるのは、10人に1人と聞く。
いや、素人同然で入門する人もいるから、簡単には言えないが、その世界に入っても、給料をきちんともらえる確率が10%って、すごすぎないか?改めて考えると。
もちろん、給料をもらえないと言っても、力士がバイトして食費を稼いでいるわけではないだろうし、ある程度の生活は保障されているのだから、大きな問題ではないのかもしれない。
ただプロボクサーを目指してバイトしながら練習している若い人や、お笑い芸人や役者を目標にバイトしながらオーディションに挑戦し続けている人などに比べると、関取を目指す若者は、どこか極端なことをしている感がある。
相撲という、「一方的」か「大逆転」がほとんどの、勝負が瞬間的に決まる理不尽な世界に挑んでいるからかもしれない。
広く見渡してみれば、その世界での成功者への道の厳しさでいったら、相撲だけが突出しているわけではないだろう。
他のスポーツでも、芸能界でも、学者の世界でも、サラリーマン稼業の中だって、ごくひとにぎりの成功者のまわりに、無数の敗者がいる。
ただ相撲は、関係者を寝食まるごとガッチリと数年がかりで抱え込んで、この世界からの出入りを完璧に管理している分、光と影がはっきりしやすい。
土俵に、意地や怨念が漂っている。
力士引退後の「空虚感」
30歳代後半の幕下力士もいる。
とんでもなく大きなお世話ながら、どういう将来設計なんだろう?と考えたりする。
部屋のマネージャー的な立場で協会運営に何らかの形で関わったり、部屋の後援会の紹介でどこかの会社員になったり、ちゃんこ屋さんや飲食店の店員になったり、まあ、元力士なら、まったくつぶしが効かないわけでもないと思う。
そもそも体力的には、鍛え抜かれているわけだし。
関取になって、一定以上の地位に上がれば、親方や若者頭、世話人などの役割で協会での立場が保障される。
これはもちろん、引退力士にとっては、とてもありがたい制度だろうなと思う。他のプロスポーツや芸能界で、立場を保障するシステムなどない。
こういう仕事は、これはこれで、まあやりがいはあるだろうし、安定しているから安心の部分もあるだろうけど、でも、親方や、若者頭、世話人らの皆さんも、そんなに充実の毎日というわけでもなさそうに見える。
「現役時代がいちばんよかった。また戦いたい」と思っているように見える。
「一方的」か「大逆転」ばかりの、どうにも理不尽な、偶然だらけの土俵で戦っていたはずなのに。
たとえどのあたりの地位にいても、引退の時期を考えなければならない年齢の力士にとって、決断は容易ではないだろう。
やめれば、もう、勝つことはない。
強くなることはない。
続けても、もうあんまり強くなれそうもないけれど、でも、やめれば、もう絶対に強くならない。
理不尽で、偶然だらけで、無残で、疑問だらけの土俵で、なぜか勝つ、という偶然を手に入れることはできない。
だから、いざ次の世界へ!、というときは、当たり前だけど大きな決断なのだろうと思う。
だって、やはり土俵は力士のものだから。
いちばん輝いているのは、
かつての名横綱でも、昨日の大熱戦でもなく、
いま、いまこの土俵で、いまこの瞬間に戦っている、ふたりの力士だから。
相撲の底知れない感じ
体が大きければいい、というものでもないことは、見ればすぐわかる。
怪力というか、握力や、腕の力が強いほうがいいのだろうが、それだけでもなさそう。
足腰がいい、差し身がうまい、相撲カンがいい、足の使い方・ひざの使い方・手の使い方・ひじの使い方がうまい・・、いろいろ絶賛される力士も、翌日の相撲はあっけなく、一方的に敗退したりする。
戦っても、戦っても、
やっても、やっても、
やはり、わからない。
やはり、難しい。
そういう相撲を、毎日見ている。