共感で説得力が倍増する

東野圭吾さんの探偵ガリレオシリーズの長編。これまた、うーん、面白い!

聖女の救済 (文春文庫)

聖女の救済 (文春文庫)

トリックの現実感を担保する全体構成

ネタバレのトリックは下記。

「ふつうの人間は、どうやって人を殺すかに腐心し、労力を払う」

「だが今回の犯人は逆だ」

「殺さないことに全精力を傾けた」

「こんな犯人はいない」

古今東西、どこにもいない」

「理論的にはありえても、現実的には考えられない」

「だから虚数解だといったんだ」

結婚したばかりの妻が、キッチンの水道の浄水器に亜ヒ酸をセットして、夫が勝手に使わないように1年間、ずっと監視する。

1年後、ある決断のもとに、妻は監視をやめて殺す。

亜ヒ酸の工作は1年前なので、工作痕は残らない。

また亜ヒ酸は超微量なので、その証拠も残らない

・・いや、小説から離れて、この説明だけを聞いたなら、誰もすぐには納得できないだろう。

しかし、捜査パートと、湯川パートのカットバックによる展開の速さと緊張感で、どんどん進んでいくから、この全貌が見えたときも、まったく「え、そりゃないでしょー」という気にならない。

むしろ、花への水のやり方の不自然さなど、序盤の伏線が424ページをかけてどんどん回収されていくので、「いやー、これしかないよなー」という感じになる。

つくづく、「トリックそのものにも増して、ディテールと展開が大事だなー」と考えさせられた。

湯川への共感で説得力倍増

序盤で湯川学助教授がこう話す。

「犯罪トリックの場合、捜査陣は犯行現場を納得いくまで調べることが可能だ」

「何かを仕掛ければ必ず痕跡が残る」

「それを完璧に消さなければならないところが犯罪トリックの最も難しい点」

読者に「確かにそうだ」と思わせて、しかもこの方向でお話が展開していく。

また思い込みの危険性を改めて説く下記のくだりも印象的だった。

「恐竜の骨を見つけた時、内部の土を取り除いた学者たちを非難することはできない」

「残っているのは骨だけだと考えるのが普通だし、その骨を露わにし、見事な標本を作ろうとするのは研究者として当然のことだ」

「ところが、無駄なものだと思って取り除かれた土にこそ、もっと重要な意味があった(土をCTスキャンして内部構造を三次元画像にすると、骨格内部の土は生きていた時の形をそっくり残した臓器などの組織だった)」

「(消去法では)考えられる仮説をひとつひとつ潰していくことで、たったひとつの真実を突き止めることができる」

「だけど仮説の立て方に根本的な誤りがあった場合、極めて危険な結果を招くことになる」

いちいち「そうだよなー!」と思わせる言葉で、湯川学助教授への信頼感が増していく仕掛け。

下記のような、ちょっとした指摘も嬉しい。

「お互いが理性的なら、意見の対立は決して悪いことではない」

読者としては、「信頼できる、バランスの取れた人の推理に乗っかっている」と思えると、安心できるし、そのこと自体が心地よい。

読むこと自体が楽しい。

「情が移る」し、無理でしょ、だけど・・気にならない

改めてトリックを考えると、いくらなんでも1年間、完璧に監視するなんて、リアリティのない話だと思う。

人間なんて、適当で、流されやすいわけだから、現実的には、「情が移る」というか、ふたりの暮らしに慣れて楽しいから、「こんなバカな仕掛けはやめよう」という気になりそうだ。

そもそも、突然の病気、何かの予期せぬアクシデントなどと完全に無縁でいられるほど、毎日を緊張感もって生きていけるほどの人間って、実際には、いそうもない。

こんなこと無理でしょ、という話だ。

ただ、そういうことは、この小説を読むなかでは、まったく気にならなかった。

そういう「リアリティのなさ」みたいなことは、思いつかなかった。

いい気持ちで、楽しく読んだだけ。

東野圭吾さんの、ガリレオシリーズの安定感と、仕掛けと、伏線と、細部の説得力で、完封されてしまった。