大脳生理学の「最前線」

池谷裕二さんの本は面白いなーということで、買ってそのままだった、この本を読む。

池谷さんが、自分の専門の「大脳生理学」で何をやっているかをベースに、NYの日本人高校生に講義する本。

表紙にイラストレーターの長崎訓子(くにこ)さんの絵があるけど、まさにこんな感じ。

f:id:Hebiyama:20171211095212j:plain

池谷さんは長崎さんのイラストをとても気にいっているようだ。確かに「いいイラストはとても理解を高めるなー」と、自分もすぐに影響を受けて好きになってしまった。

ちなみに、長崎訓子さんは、検索してみたら、これまでも何度も印象に残る表紙イラストを書いている著名な方。自分にも、印象に残っている長崎さんの絵がたくさんあることを知った。

だけどこれまでは、「単なる、一消費者として」表紙を見ただけで、改めて、イラストの作者を調べたりしていなかった。自分の不勉強ぶりを思う。

「おっ、これは!」と思ったら調べる。というか、「おっ!と、思っていること」にもっと自覚的になって、注意していないといけないな。なかなか簡単ではないけど。

各章ごとに、読みながら、そうなのかーと思ったのは下記のような点。

第一章「人間は脳の力を使いこなせていない」では・・

「念じるだけ」で体を動かすことができるかも?

よく図鑑には掲載されているそうだが、自分はまったく覚えていなかった話。

脳には「体性感覚野」というものがあって、顔、目、鼻、口、指、胴体、足などに対応する部分が並んでいる。「脳地図」と呼ぶそうだ。

f:id:Hebiyama:20171211095227j:plain

ネズミやサルに電極を埋めて、特定の部位を刺激すると、レバーを押したり、ロボットアームを動かす実験はうまくいっているとのこと。つまり器具を脳から直接に遠隔操作することが動物実験では可能になっている。ということは・・

交通事故などで全身不随になった患者でも、念じるだけで義手なり義足を動かせるようになる。

もしかしたら車椅子も動かせるかもしれない。

体の代わりになる機械を神経を通じて操縦する手法を研究する分野を「神経補綴(ほてい)学」という。

アメリカではこの池谷さんの講義をやっているころの2004年に脳チップを埋め込む臨床実験が行われたようだけど、どうなっているのかな。

「脳地図」は変化しうる

ここも驚いた。

「脳地図」はかなりの部分で後天的なもの。

脳の地図は、脳が決めているのではなくて、体が決めている。

たとえば事故で手を失ってしまった人の場合、失われた手に対応していた脳の部分はどんどん退化していく。

バイオリニストの脳を調べてみると、指に対応する脳の部分がよく発達している。

そして、こんな話も。

脳だけ見るとイルカの脳はすごく高性能。

体がヒトほど優れていなかったために、イルカの脳は十分に使い込まれていない。

何が重要かというと、脳そのものよりも、脳が乗る体の構造と、その周囲の環境。

クロマニョン人は現代にも通用するような脳をすでに持っていた。

ネアンデルタール人にいたっては現在の私たちよりも大きな脳を持っていた。

ここで池谷さんの仮説が提示される。

脳は進化に最小限必要な程度の進化を遂げたのではなく、過剰に進化してしまった。

脳に関しては、環境に適応する以上に進化してしまっていて、それゆえに、全能力は使いこなされていない。

第二章「人間は脳の解釈から逃れられない」からは・・

「いま」は常に過去になる

改めて考えてみると、確かに、そうだなと思った。

目から入った情報は視覚野で解析される。

脳は「形」「色」「動き」の分析処理を独立に並行して行っている。この3つの解析にかかる時間が異なる。

リンゴが転がっている。

いちばん先に気づくのは「色」。「赤」に気づく。

次に「リンゴ」とわかる。「形」だ。

最後にわかるのは「転がっている」という「動き」の情報。

「色」に気づいてから「転がっている」と気づくまでの時間は、早くても70ミリ秒くらいの差がある。

ということは「赤いリンゴが転がっている」と一口に描写してしまったらウソ。

言われないと意識できなかった。

確かに、突然見たときなど、

赤い何か?リンゴだ!転がっている!

・・というふうに、順を追って捉えている。時間差はあるなー。

「上丘(じょうきゅう)」で見ている

視覚野の片方がダメになった人も、見えているかのように、振る舞うことができるそうだ。

目の情報を処理するのは、実は第一次視覚野だけではない。

視神経は視床で乗り換えられるのだけど、その直前で枝分かれして、「上丘(じょうきゅう)」という場所にも、目で見た情報が運ばれている。

f:id:Hebiyama:20171211103758j:plain

上丘で見ているものは意識には現れない。

それでも、障害物をよけたり、どこが光ったとか、レベルは低いけれども重要な処理能力を発揮できる。

上丘は処理の仕方が原始的で単純だから、判断が速くて正確。

野球のボールやテニスのサーブなどの剛速球をどう打ち返しているのかとプロの選手に聞くと「何も考えていない」と答えてくる。

これは上丘で見て判断している証拠。

上丘がなければ、野球やテニスというスポーツは成立しないだろう。

まったく知らない話だった。そうなのか。

人間の行動の大部分は無意識?

そしてまた「無意識」問題となる。

錯覚、盲点、時間の埋め込み、色づけ・・、目に入った光をどう解釈するかは「私」が意図的に行っているのではなくて、あくまでも「脳」が行っている。

「私」という存在は、脳の解釈を単に受け取っている受け皿。

人間の行動の中で意識してやっていることは意外と少ない。

見るという行為でさえも無意識だとわかった。

人間の行動の大部分が無意識かもしれないと想像されてくる。

「言葉」も「反射」という話もあった。

こうしてペラペラしゃべっているけれど、話し言葉には1秒間に大体2文字から5文字ぐらい入っているらしい。

これをいちいち、次は「つ」という発音だ。その次は「ぎ」だ、などと考えていたら、こんなふうにスラスラしゃべれるはずはない。

必ずしもすべてが意識でコントロールされているとは言いがたい。

むしろ「反射」に近い部分もある。

また、第三章「人間はあいまいな記憶しかもてない」の中では・・

記憶は「正確性」を排除する

えっ、なんで?という話だけど、とても納得できる。

パシャッと写真に撮ったかのように覚えることはコンピュータだったらできること。

少なくとも脳はそういうことをしてない。

むしろ、そこにある何らかの特徴とかルールとか、ともかく「パッと見」の下にひそんでいる基礎の共通項を自動的に選び出してくる。

今日の僕の姿をすべて写真のように覚えていたら、次回の講義の池谷は別人になってしまう。

違う服を着るし、髪型も変わっているだろうし、何年もたてば老ける。

100%完璧な記憶は意味がない。同じ状況はもう二度とは来ないから。

環境は絶えず変化する。

だから、人間は見たものそのものを覚えるのではなく、そこに共通している何かを無意識に選びだそうとする。

そして、第四章「人間は進化のプロセスを進化させる」では・・

最初に「効く薬ありき」だった

神経に直接効く薬として、アスピリンモルヒネ、麻酔などを出したあと、こんな話が出た。

神経の仕組みがわかったのはごく最近の話。

それよりもはるか以前から薬は使われてきた。

薬が効く、ということが前提としてあって、では、この薬は何をしているのか、というふうに科学者は考えた。

それを通じて体の仕組みが理解されるようになった。

つまり、薬は人体の解明に一役買ってきた、一種の「科学のツール」だったというわけ。

「薬学」と聞くと、薬を作る学部だと思っている人がいるけれど、「薬を通して体を知る」という基礎科学も薬学の大切な役割。

合間に入っていた下記の話も考えさせられた。

自分は「ほぼ」ガンになる

全体の死因のうち、ガンは3割。

ガンが治る確率が50%くらい。

再発率を考えずに単純計算でいくと6割の人は一生の間にガンになる。

だから、自分がガンになると思ってて確率的には決して間違っていない。

人間は「新しい進化」をしている

この指摘は驚いた。

いま人間のしていることは自然淘汰の原理に反している。いわば「逆進化」だ。

現代の医療技術がなければ排除されてしまっていただろう遺伝子を人間は保存している。

この意味で、人間はもはや進化を止めたと言っていい。

その代わり、自分自身の「体」ではなくて「環境」を進化させている。

環境を好み通り自在に変えることができれば、もう自分の体は進化しなくてもいい。そんなことを人間はやり始めている。

新しい進化の方法だ。

こういう考え方は面白いなーと思った。

ヒトの体は熱効率がいい

この比較も考えさせられた。

脳は、重さでいえば、体重のわずか2%程度しか占めていない。

でも、全身で消費するエネルギーの20%も使っている。

成人男性が1日2000キロカロリーを吸収しているとすると、うち400キロカロリーを脳が使っている。

もっと詳しく調べると、神経伝達物質の用意に80%が消費されている。

換算すると400キロカロリーは20ワット。

夜、寝室につける常夜灯が5ワットだから、自分の脳の活動は、あの黄色いランプ4つと同じ消費電力量。

ヒトの体は熱効率がいい。

こういう考え方はしたことがない。脳を少し客観視できて、面白いなーと感じた。

科学とは?意識とは?

最後は、なんというか、底が抜けるというか、考えたことのない話だけど、でも、とても共感できる話。

科学というのは「客観性」と「再現性」を重視する学問。

科学の俎上に、主観的な存在である「意識」を載せることはできるのだろうか。

科学は万能で、あらゆる宇宙の現象を解明できるように錯覚している人もいるけど、実際には、科学研究の対象にできる現象は限られている。

「科学研究の対象は限られている」という話。自分も「反証可能性とかいうけれど、世の中、検証不可能なことも結構多いよなー」と思っていたが、「限られている」とズバッと言われると、その通りだなーと思った。

リンゴを放したら地面に向かって加速して落ちるような、誰にでも再現できるような現象なら研究対象になるけど、再現性や客観性に欠ける「心」とか「意識」といった問題を、はたして科学が扱えるのだろうか。

科学ってかなり宗教的なもの。

「科学的」というのは、自分が「科学的」だと信じて、よって立つ基盤の中での「科学的」だ。

そう考えると、科学はかなり相対的で、危うい基盤の上に成立している。

・・なんだか、グラグラしてくる感じもする。

池谷さんの案内で、脳のことを考えることは、とても面白い。

サブタイトルが「大脳生理学の最前線」だけど、その「最前線」は、本当にいろいろと考えさせてくれる世界なんだなーと感じた。