私たちは「有意義病」だ

精神科医の泉谷閑示(いずみや・かんじ)さんの本。幻冬舎新書の紹介文を読んで興味を持ち、購入した。

本のタイトル「仕事なんか生きがいにするな・生きる意味を再び考える」、そのままの本。

「生きる意味」なんて、かなり青くさい言葉かも、と最初は少し思ったが、考えさせられる文章がいくつもあった。

「方便」が自己目的化している

私たちはついつい「役に立つか立たないか」を性急に求めて、近視眼的に、目に見えてすぐ役立つものに傾倒してしまう。

「すぐに役立つこと」とは「売れること」に直結してしまっている。

「売れること」を追求するとなれば「わかりやすい」「簡単」「役に立つ」「面白い」といったアピールポイントが求められる。

その結果、本来は奥行きのある「質」を追求すべきものまでが、離乳食化したり、陳腐化する事態がはびこっている。

「質」の低下について制作側の人たちに問いかけてみても、返ってくる反応は大概、「どんなきっかけでもいいから、まずは見てもらえなければ始まらない」「まずは書店で手に取ってもらえなければ始まらない」といった類。

そういった要素を無視できない事情は理解できるが、不本意な妥協を強いられているうちに、送り手側は当初の志をどこかに置き忘れてしまい、「方便の自己目的化」という深い罠にはまってしまったのではないか。

自分の経験上、とても思い当たる。

というか、「今の時代、みんな忙しいのだから、難しいこと長々やってたってダメ。役に立つことを、短く、端的に」という指摘に、表だって反対することは誰にもできないから、ズルズル押し切られてしまう感じ。

確かに、方便が自己目的化していて、実際は見てもらう数が本当に増えているのか、わからない感じがあるのに、よほどのことがないかぎり、もう立ち戻ることはない。

二次的情報で判断が甘くなる

「頭」で判断してしまう傾向の人々が陥りやすい罠がある。

作品や演奏そのものではなく、そこに付随してくる二次的情報に惑わされて、判断が甘くなること。

特に、コンクールなどで評価されたものは、専門家が評価したのだからきっと素晴らしいに違いない、と思われる方も少なくないでしょうが、これがはなはだ信用ならない。

芥川賞だの、ショパンコンクールだの、ノーベル賞だの、二科展だの、まあすごいのかもしれないけれど、完全思考停止で「とにかくすごい」みたいになってるパターン、本当に多いと思う。

どこがすごいか全然わからないのに、でもすごい、みたいな報道の感じには、自分も、よく違和感があった。

夏目漱石の「素人と黒人(くろうと)」というエッセイには「黒人(玄人)」つまり専門家の判断に惑わされてはならないと、きっぱり述べられている。

真に良質のものは、たとえ素人であってもわかるはず。いや、むしろ素人の方が妙な先入観がない分、判断が曇らないだろう漱石は言っている。

ただ素人でも、「わかる・わからない」「知っている・知らない」という「頭」レベルで安易に判断したり、二次的情報で左右されてしまう場合は、その判断はまったく信用できないものとなる。

漱石はこれを「つまらない素人」と呼び、「つまらない素人になれば局部も輪廓もめちゃめちゃでわからないのだから、そんな人々は自分の論ずる限りではない」と断じている。

泉谷さんは、「つまらない素人」とは、ムラ社会に典型的な人間像だとして、こう指摘する。

彼らは、「自分の慣れ親しんだ範疇を超えたものに対しては、下らない!と価値の切り下げを行う頑固さ」「既存の権威や情報操作にあっけなく盲従してしまう柔軟性」を併せ持つ。

あの人ってそうだよなー、と頭に浮かぶ人がいるが、・・自分自身にも、こういう面がないとは全然言えない。というか、自分のそういう面は絶対見えないから、よほど気をつけないといけない。

こういう話の中で、我々現代人は生きる意味を見失っているのではないか、「働くとは何か」という根源的な意味を考えてみる必要がある、という泉谷さんの話をもっと聞きたい感じになる。

「本当の自分」論を馬鹿にするな

「本当の自分」などというと、よく下記の指摘があるという。

「本当の自分」などというものは、そもそも知ることもできないし、その存在を証明することもできない。

私自身もこういう考えだが、泉谷さんはここに反論する。

これらは、客観という狭い合理性の範囲内で認識できるものだけを厳密に扱おうとする立場。

原始的な盲信や宗教的思考停止を払拭するために、合理的、科学的思考を旨とする。

これが今日の物質的繁栄をもたらしたことは言うまでもないが、ここで問題になっている「本当の自分」を求める人々の心性に対して、この考え方を適用するのは、原理的に無理がある。

人間というものは、「客観」によってではなく、「主観」やイメージによって規定される生き物であることを念頭に置き、そこから人間を考えなければ、本当のことは見えてこない。

そして泉谷さんは、日々の臨床の中で、「心的現実」が人間の在り方に決定的な影響力を持つことに驚嘆させられているという話を出す。

一般に想像されていることとは違って、「心的現実」の変化によって起こる変化は、薬物などによる化学的作用をはるかに凌駕する、ダイナミックで本質的なもの。

身体医学的アプローチが空振りに終わった慢性的身体疾患でさえ、「心的現実」への働きかけで劇的に解決することも決してめずらしくない。

うーん、「本当の自分」論を、頭から否定してはいけないなー。

「意味」と「意義」を取り違えるな

現代に生きる私たちは、何かをするに際して、つい、それが「やる価値があるかどうか」を考えてしまう。

価値があるならやる、なければやらないという考え方に「意義」という言葉は密接に関わっている。

つまり私たちが「有意義」と言う時には、それは「何らかの価値を生む行為」と考えている。

泉谷さんはこの「有意義」が私たちを窮屈にしているという。

たとえば、うつ状態に陥った人たちが療養せざるを得なくなってまず直面するのが、「有意義な過ごし方ができなくなってしまった苦悩と自責」。

働くとか、学校に行くといった「有意義」なことができない自分を「価値のない存在」と責めてしまう。

問題なく動けて社会適応できている時には気づきがたいことだが、私たち現代人は「いつも有意義に過ごすべきだ」と思い込んでいる、一種の「有意義病」にかかっているようなところがある。

「有意義病」って、すごくよくわかる。

学校行かなくたって、働かなくたって、別に、死ぬわけじゃないんだし、全然、自責の念にかられる必要ないんだけど、なんとなく、有意義でないことをしていることに耐えられない感じになってしまう。うん、「病気」かもしれない。

一方、「意味」というものは、「意義」のような「価値」の有無を問うものではない。

他人にどう思われるかに関係なく、本人さえそこに「意味」を感じられたのなら、「意味がある」ということになる。

つまりひたすら主観的で感覚的な満足によって決まるのが「意味」。

「意義」とは、我々の「頭」の損得勘定に関係しているもの。

「意味」とは、「心=身体」による感覚や感情の喜びで捉えられるもの。そこに「味わう」というニュアンスが込められている。

なるほど、そう整理されるのか。

しかし現代人が「生きる意味」を問う時には、ともすれば「意味」と「意義」を混同して、「生きる意義」や「価値」を問うてしまっていることが少なくない。

これが問題を余計難しくしてしまっている。

うん、考えさせられる。

「労働教」から脱出せよ

我々は、ともすれば対象そのものの本質から外れて、手段や副産物を目的と捉えがちなところがある。

良き学歴を得て、良き就職をし、良き社会的地位や収入を得て、結婚し、子どもをもうけ、家を持ち、子どもを良き学校に入れ、良き習い事をさせ、等々。

これら多くの人の躍起になって追いかけている「価値」も、元来は、幸せに生きることを目指しての方便にすぎない事柄だったはずなのだが、いつの間にか、それ自体が目的化してしまった。

そして泉谷さんは、現代の「本当の自分」探しが、自分にふさわしい「仕事探し」にすり替わっているという指摘を紹介して次のように書いている。

一個の人間は、一つの職業に包摂されるほど小さくはないと私は考える。

私たちに問われているのは、「労働」をやみくもに賛美する「労働教」から脱して、今一度、大きな人間として復活すること。

ここまで読むと、この主張も、とても頭に入った。

生きることを「味わう」

人生を「味わう」ことが、どこか背徳的なことであるかのように見なされ、せいぜい「労働」という苦役を果たした後に、やっと「ご褒美」でわずかに許されるものと捉えられている実情が未だに続いている。

会社で、自分の仕事が終わったからと言って自分だけ帰ることがはばかられたり、有給休暇が申請しづらかったりするようなことは、まさしくその典型的な表れ。

・・自分にも、そういう感情、当然、思い当たる。

泉谷さんは、人生を「味わう」ために、もっと遊ぼう、と書く。

効率主義を含む合目的的な思考は、ビジネスのみならず現代人の思考全般にすっかり浸透している。

どんな小さな選択でも「役に立つか?」「損か、得か?」「コストパフォーマンスは?」「保証は?」「メリット、デメリットは?」「リスクは?」と考えるくせがついてしまった。

「結局」「所詮」「面倒くさい」といった言葉が乱発されるようになり、「余計なこと、無駄なことはしないのが賢明」と考えるようになってしまった。

ところがそもそも「遊び」は「無駄」の上にこそ成り立つ。「結果」はあくまで二次的にすぎない。「プロセス」にこそ面白味があるもの。

今日の合目的的な思考に偏ったメンタリティでは、およそ「遊び」など入り込む余地はない。

どこか、養老孟司さんの「脳化社会」的な考え方に通じる指摘だなと考えた。

泉谷さんは2つの提案をする。

あえて、無計画、無目的に、自分の行動を「即興」に委ねてみる。

「面倒くさい」と感じることを、むしろ積極的に歓迎してみる

そして、こんな提案も・・

私たちは、もはや「何者かになる」必要などなく、ただひたすら何かと戯れてもよいのではないか。それこそが「遊び」の真髄。

「心」の向くまま、気の向くまま、気軽にやってみる。気が向かなければやらない。

「継続」などと堅苦しく考えたりせず、ただ壮大な人生の「暇つぶし」として「遊ぶ」。

・・うーん、どんどん、解放されるというか、まあ気持ちはラクになる。

また、この本には、「働かざる者、食うべからず」という言葉と、「アリとキリギリス」が、日本人の労働観に大きな影響を与えているという指摘もある。

確かにそう思うが、この点は、ちょっと複雑だなと思う。

というのは、本当に働いていない人を見たらすぐに「バカ野郎、働け!働かざる者、食うべからず、だぞ!」「アリとキリギリスを見ろ!働かなかったら、キリギリスみたいになるぞ!」なんて、本人に直接言うような、そんな、おかしな人はそうはいないと思うから。

・・まあ、幼児期に、絵本で読むときは、「ちゃんと働いたから、アリさんはえらいね」くらい、言うだろうけど。

社会適応できて、働いている人にとって、「働かざる者、食うべからず」や「アリ信仰」は、もっと感情の深いところに、静かに置いてあるもので、ふだんはあまり意識しない気もする。

だから、何らかの事情で学校や職場に通えない人には、まずは「ああ、気の毒に・・」という思いが先に来ると思う。

むしろ、いま学校に行くことや、働くことができない人が「働かざる者、食うべからず」「アリ信仰」を過剰に意識してしまいがちの面がありそうだ。そんなに意識しなくていいのに、「有意義病」の社会の根底にある心理を敏感に感じとってしまっている気がする。

だから、やはり、アリ信仰と決別すべき、という指摘が最後にある。

ご承知の通り、私たち日本人は勤勉や忍耐を美徳とし、後々に備えて貯蓄をすることを良しと考える傾向がことのほか強く、「アリとキリギリス」のアリのように生きるべきと考える人が圧倒的なマジョリティ。

しかし実際のところ、「今を生きること」を犠牲にして貯め込んではみたものの、特にこれといった使い道はなく、結局のところ使い切れなかった遺産が、骨肉の相続争いの種になる。

これは、我々の身近にいくらでも存在する、かなりポピュラーな顛末。

このようなアリ信仰は、禁欲的に労働して未来に備えることを過度に賛美し、その反作用として「今を生きる」「生きることを楽しむ」ことを「良からぬこと」と捉えるような、倒錯した価値観を生み出した。

「苦しいこと」「我慢すること」こそ正当なことで、「楽しむこと」「心地よいこと」は堕落だとして罪悪感を覚える。

そういうメンタリティで窮屈な人生を送っている人は、今日でも決して少なくない。

私たちはもう二度と、貴重な「人間らしい生」を犠牲にしてはならない。

よく、現代の「生きづらさ」みたいな話があって、「それは、甘えだ」という反発もある。

泉谷さんは、見えにくい、意識しにくい、日本人の心の内側、底の部分を、解きほぐしていく感じ。

こういうふうに説明してもらえると、「生きづらさ」議論もわかりやすいのに・・、と思う。

  • 生きる意味

  • 方便や手段、副産物の自己目的化

  • 「有意義病」

  • 「労働教」

  • 「アリ信仰」

・・こうした言葉を、ひとつひとつ、ひっくり返していく感じ。

人生の課題について、すごくストレートで、そして、深い本だ。