他者を通じて自分を知ろう
何かの本の関連書として推薦されていて、興味を持って購入した。
医療者が語る答えなき世界: 「いのちの守り人」の人類学 (ちくま新書1261)
- 作者: 磯野真穂
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2017/06/05
- メディア: 新書
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著者の文化人類学者、医療人類学者、磯野真穂さんは「文化人類学者の営み」を下記のようにとらえているという。
相手の肩越しから、相手の世界を見てみること。
私はあなたになることはできないし、あなたは私になることはできない。
しかしあなたの世界を、あなたの肩越しから見ようとすることは可能である。
あなたが私の世界を、私の肩越しから見ようとすることは可能であるはずだ。
また、こうも書いている。
文化人類学は「立ち止まることを奨励する学問」である。
そこにある「当たり前」が、なぜ「当たり前」として成立しうるのか。
あちらの世界では正しいことが、なぜこちらの世界では間違ったことになるのか。
本当は「危うい真実」が、なぜ「確かな真実」に見えるのか。
ということで、磯野さんは、医療現場で働く人に・・
「肩越しから見る」かのように、話を聞く。
立ち止まってもらって、話を聞く。
そして、医療者にも、医療を受ける人にも、「ふだん、あまり意識されない、気づき、余白、素朴な疑問、ふと感じる部分」が、提示されている。
それは下記のようなこと。
なんで末期癌で余命わずかの男性患者に、本人が食べたいというナタデココを食べさせちゃいけないのだっけ?
なんで看護師の日勤シフト維持のためにこんなに忙しく介護して、患者が欲しがるスカートのゴムさえ買うのはダメ、なんてことになるのだろう?
なんで高齢者を身体抑制しているんだっけ?
なんで胃ろうを取り付けているんだっけ?
手術室の呪術性
新薬の多面性
漢方との兼ね合い
標準化、エビデンス医療から、こぼれ落ちる部分
「いつもこうしてきたんです」を守り続けることの、「難しさ」と「尊さ」
言語聴覚士が感じる「自分が役に立っている」という「幻想」
よく「たまには、立ち止まって、ゆっくり、改めて、考えよう」とか言われるけど、こういうことって、口で言うほど、簡単じゃない。
ましてや、こういう声を集めていくって、手間も、時間も、熱意も、かかる。
だから、こういう声って、聞くようであまり聞かないし、こういう「違和感まとめ」みたいな医療関係の本って、そうはないのではないか。
もちろん、ふだんから「違和感全開!」なんて医療者は、それでなくてもムチャクチャ忙しい医療現場では存在し得ないし。
磯野さんも、こう書く。
医療者は日々進まねばならない。
医療者が(文化人類学者の)私たちのように立ち止まり、図書館に行ってしまったり、煮つまってコーヒーを飲みに出かけてしまったりしたら、臨床は一切進まなくなり、下手をすれば(いや間違いなき)死人が出る。
ガイドライン、プロトコル、評価指標といった標準化のためのツール、さらに医師をトップに頂く明確な指揮系統は、不確かな現場を「確か」に見せることで、医療者が立ち止まらずにすむようにするための仕掛けと見ることも可能であろう。
助けを求めにくる人の前で、医療者はとにもかくにも進まなくてはならない。
磯野さんは、文化人類学のことを「他者の生を通じて自分を知る学問」とも、定義している。
確かにこの本は、医療者の話や、違和感を読みながら「自分はどうなると心地いいのか」「どうなると不快なのか」「どうしたいのか」「自分自身はどういう存在なのか」を考えるきっかけにもなった。
磯野さんの言う通り、「他者の生」を通じて、自分を少し知ることができる本だった。