「意味」なんて なくていい
養老孟司さんの新刊。
私は養老孟司さんが自分で書いたものより、「バカの壁」のような語りおろしのほうが面白いと感じている。
今回は養老孟司さんが書いたほう。
- 作者: 養老孟司
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2017/11/16
- メディア: 新書
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「起きてるときは意識あり」でいい
意識とは何か。養老孟司さんの定義。
まあそのくらいでいきましょうという感じ。
じつは意識に科学的定義はない。
ここでは仮に定義しておくしかない。私の定義は簡単である。
どんな動物であれ、寝たり起きたりしていれば、意識がある。
動物が生きていて、寝ていないときには、意識がある。
要するに、寝ていなきゃあ、意識があるとしておこう、ということである。
「同じ」機能が人間だけ
突きつめると、「同じ」ということがわかるのが、動物と人間の違いになるという。
ヒトの意識は「同じ」という機能を持ち、動物とは異なるヒト社会を作り出した。
ヒト社会を私は脳化社会と呼んできた。脳の機能である意識が創り出す社会という意味である。
動物もヒトと同じように意識を持っている。
ただしヒトの意識だけが「同じ」という機能を獲得した。それが、言葉、お金、民主主義などを生み出したのである。
意味しか存在しない社会が作られている
うーん、そうかも、と感じる考え方。
現代人はひたすら「同じ」を追求してきた。
「安全」だとか、「便利」だとか、「清潔」だとか、その時々で適当な理由づけをする。
でも一歩引いて見てみれば、やっていることは明らかである。
(動物的な)感覚所与を限定し、意味を直結させ、あとは遮断する。
世界を同じにしている。
若者は四六時中、スマホを見ている。その中にあるものは、すべて同じものである。
現代生活は人生の意味を剥奪しているのではない。
むしろ「意味しか存在しない」社会を作っている。
無意味の存在を許さなくなる人間
「意味」を重視しすぎた結果として養老孟司さんはこう書く。
意味のあるものだけに取り囲まれていると、いつのまにか、意味のないものの存在が許せなくなってくる。
その極端な例が神奈川県相模原市で起きた19人殺害事件。
障害があって動けない人たちの生存にどういう意味があるのか、そう犯人は問うた。
その裏には「すべてのものには意味がなければならない」という(暗黙の)了解がある。
さらに「その意味が自分にわかるはずだ」という、これも暗黙の了解がある。
なぜそうなるかというと、すべてのものに意味があるという、都市と呼ばれる世界を作ってしまい、その中で暮らすようにしたからである。
なんでこんな変な虫がいなきゃならないんだ。
なぜいまここで、タバコに火をつけなきゃならないんだ、
そんなものは雑草と同じだ。引っこ抜け。
いろいろ理屈はあるだろうけれど、根元にある感情のひとつは「無意味なものの存在を許さない」という、それであろう。
「意識」から「感覚」へ
ヒトの生活から意識を外すことはできない。
できることは、意識がいかなるものか、それを理解すること。
理解すれば、ああしてはまずい、こうすればいいということが、ひとりでにわかってくるはず。
ここまで、都市化、つまり意識化が進んできた社会では、もはや意識をタブーにしておくわけにはいかない。
実生活の中で感覚を復元する。
これも難しい世の中になった。
日常とは怖いもので、慣れたものなら「それで当然」であり、そうでないものは考えたくもないのである。
・・という状況であると、考えておくこと。
養老孟司さんがよく書いているように、できるだけ、強制的にでも、自然のなか、意味のないところに、身を置くこと。
意味なんて、なくてもいい。
星野源さんの歌詞みたい。