「意味」なんて なくていい

養老孟司さんの新刊。

私は養老孟司さんが自分で書いたものより、「バカの壁」のような語りおろしのほうが面白いと感じている。

今回は養老孟司さんが書いたほう。

遺言。 (新潮新書)

遺言。 (新潮新書)

「起きてるときは意識あり」でいい

意識とは何か。養老孟司さんの定義。

まあそのくらいでいきましょうという感じ。

じつは意識に科学的定義はない。

ここでは仮に定義しておくしかない。私の定義は簡単である。

どんな動物であれ、寝たり起きたりしていれば、意識がある。

動物が生きていて、寝ていないときには、意識がある。

要するに、寝ていなきゃあ、意識があるとしておこう、ということである。

「同じ」機能が人間だけ

突きつめると、「同じ」ということがわかるのが、動物と人間の違いになるという。

ヒトの意識は「同じ」という機能を持ち、動物とは異なるヒト社会を作り出した。

ヒト社会を私は脳化社会と呼んできた。脳の機能である意識が創り出す社会という意味である。

動物もヒトと同じように意識を持っている。

ただしヒトの意識だけが「同じ」という機能を獲得した。それが、言葉、お金、民主主義などを生み出したのである。

意味しか存在しない社会が作られている

うーん、そうかも、と感じる考え方。

現代人はひたすら「同じ」を追求してきた。

「安全」だとか、「便利」だとか、「清潔」だとか、その時々で適当な理由づけをする。

でも一歩引いて見てみれば、やっていることは明らかである。

(動物的な)感覚所与を限定し、意味を直結させ、あとは遮断する。

世界を同じにしている。

若者は四六時中、スマホを見ている。その中にあるものは、すべて同じものである。

現代生活は人生の意味を剥奪しているのではない。

むしろ「意味しか存在しない」社会を作っている。

無意味の存在を許さなくなる人間

「意味」を重視しすぎた結果として養老孟司さんはこう書く。

意味のあるものだけに取り囲まれていると、いつのまにか、意味のないものの存在が許せなくなってくる。

その極端な例が神奈川県相模原市で起きた19人殺害事件。

障害があって動けない人たちの生存にどういう意味があるのか、そう犯人は問うた。

その裏には「すべてのものには意味がなければならない」という(暗黙の)了解がある。

さらに「その意味が自分にわかるはずだ」という、これも暗黙の了解がある。

なぜそうなるかというと、すべてのものに意味があるという、都市と呼ばれる世界を作ってしまい、その中で暮らすようにしたからである。

なんでこんな変な虫がいなきゃならないんだ。

なぜいまここで、タバコに火をつけなきゃならないんだ、

そんなものは雑草と同じだ。引っこ抜け。

いろいろ理屈はあるだろうけれど、根元にある感情のひとつは「無意味なものの存在を許さない」という、それであろう。

「意識」から「感覚」へ

ヒトの生活から意識を外すことはできない。

できることは、意識がいかなるものか、それを理解すること。

理解すれば、ああしてはまずい、こうすればいいということが、ひとりでにわかってくるはず。

ここまで、都市化、つまり意識化が進んできた社会では、もはや意識をタブーにしておくわけにはいかない。

実生活の中で感覚を復元する。

これも難しい世の中になった。

日常とは怖いもので、慣れたものなら「それで当然」であり、そうでないものは考えたくもないのである。

・・という状況であると、考えておくこと。

養老孟司さんがよく書いているように、できるだけ、強制的にでも、自然のなか、意味のないところに、身を置くこと。

意味なんて、なくてもいい。

星野源さんの歌詞みたい。