脳は「おっちょこちょい」
面白かった「進化しすぎた脳」の続編ということで購入した。
- 作者: 池谷裕二
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2013/09/05
- メディア: 新書
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本の全体のイメージは、長崎訓子さんのイラスト表紙そのもの。人間が、脳をのぞき込んで、いろいろ考える感じ。
面白いなーと思った点は、章ごとに、下記のようなこと。
第一章「脳は私のことをホントに理解しているのか」では・・
科学が証明できるのは「相関関係」だけ
えっ、という話。
そんなわけ、ないじゃない、と思ったら・・
私が特に強調したいことは、サイエンス、とくに実験科学が証明できることは「相関関係」だけだということ。
「因果関係」は絶対に証明できない。
プロの立場から言わせていただくと「脳は相関が強いときに、勝手に『因果関係がある』と解釈してしまう」もの。
たとえば「解熱剤を服用したら熱が下がった」としても、科学的には「解熱剤を飲んだ『から』熱が下がった」ということを厳密には証明できない。
なぜなら、解熱剤を飲まなくても熱は下がったかもしれないから。
うーん・・、確かに、そうだ。
怪しい薬でも「効いた」、みたいな話は、この可能性を排除しているんだよな。改めて、考えると。
そこで科学者たちは「解熱剤を飲まなかったときの治癒率」と「飲んだときの治癒率」を比較する。
両者の治癒率に「統計学的に有意な差」があるかどうかを検定する。
統計学は「相関の強さ」を扱う学問であって、「因果関係」を証明するツールではない。
統計によって見出された「差」は「そういう傾向がある」という以上の意味を持たない。
・・うーん、病院で処方される薬と、怪しい薬の違いは、厳密に言うと、相関の強さだけなのかー。そう考えると、心もとない気もするが、・・まあ、厳密には、そうだよな。
科学的に因果関係を導き出せないとすると、この世のどこに「因果関係」が存在するのか。答えは「私たちの心の中に」。
つまり、脳がそう解釈しているだけ。
因果とは脳の「錯覚」。
日常生活では「因果関係がある」と勘違いしていても問題ないケースがほとんど。
でも、科学の現場では因果関係を盲信しすぎると大変な誤解を生みかねない。
うーん、「科学の限界」「謙虚な姿勢を忘れずに」という指摘は、考えさせられた。
脳は「頑固」
脳の「解釈」から逃れられないことが、改めて強調される。目の錯覚の下記の例。
(上記の)4の棒が同じ長さのペアだと正しい知識を教わっても、やっぱり縦棒が長く見えちゃう。
脳のやっていることは、世界をただ写しとって見るのではなくて、思い込みで解釈すること。
脳の作用は相当に頑固で、残念ながら、その解釈から私たちは逃げることができない。
池谷さんの本で何回か出てくることだけど、改めて大事なことだと思う。
脳は「おっちょこちょい」
解釈は「意味の見出し」でもある、という指摘も改めて出る。
(私たちは)見ているものを解釈し、なんとか「意味」を見出そうとしている。
「全体をひとまとめに認識するやり方」のことを「ゲシュタルト群化原理」というそうだ。(※ちなみに文字をずっと見ていると、その文字が意味のない形に見えてしまうことを「ゲシュタルト崩壊」とか言われる)
たとえばみなさんが、ジャングルの小動物だとしましょう。
木陰で休んでいたら、茂みに何か動くものを見つけたと。
そのときにゲシュタルト群化原理が働かず、悠長に構えていたのでは危険。
確かに、いち早く、茂みの中にわずかに見える部分的なものを「ひとまとめ」にして、危険なものかどうか、察知(早合点)しないと危ない。
ゲシュタルト群化原理が備わった動物のほうが生存に有利。
ヒトは、この意味で、ゲシュタルト群化原理がものすごく発達した動物。
なるほど、そう考えると、勝手に意味づけすることの利点がはっきりする。
野生の世界では、手遅れになって命を落とすより「早とちり」した方がはるかにマシ。
脳には、そんな側面が色濃く残っていて、つい早合点しちゃう。
脳って、おっちょこちょい。
そんな愛らしいところもある。
「脳は勝手に意味づけするから気をつけよう!」ではなく、おっちょこちょい、愛らしい、ぐらいの、あたたかい目線も大事だなと思う。
脳は「勘違いな理由づけ」を始める
これも、自分の行動を振り返ると、よくやってしまっているなーと思うこと。下記の好みの男性を選ぶ実験。
(A)のように左右交互に見せると、長い時間を見たほうが好みになるそうだ。
(「単純接触現象」という)何度も接していると、もうそれだけで好きになってしまう性質が脳にはある。
ところが(B)の場合は、どちらかを長く見せても、好みにはならないとのこと。それは、こういうことだという。
つまり「視線を動かすかどうか」がポイント。視線を動かすことによって感情が引き出される。
「私がわざわざ視線を動かしてまで見に行っているのだから、それだけ魅力的な人に違いない」と脳は解釈する。
困った性質というか、面白い性質というか、広い意味で「錯誤帰属」と呼んでいい。
錯誤帰属は、自分の行動の「意味」や「目的」を、脳が早とちりして、勘違いな理由づけをしてしまうこと。
脳はアホなんです。
うーん、やってる、やってる。
「苦労した分、このほうが正しい」とか、無根拠でよく決めつけていると、改めて思う。
「直感」と「ひらめき」は違う
脳機能の視点から見ると、「直感」と「ひらめき」は、まるで別物なのだという。
「ひらめき」は思いついたあとに理由が言える。
「これこれ、こうだから、こう。さっきまでわからなかったが、いまならわかる」というふうに理由が本人にわかる。
「ひらめき」は理屈や論理に基づく判断だから、おそらく大脳皮質がメインで担当している。
「直感」は自分でも理由がわからない。
「ただ、なんとなく」という漠然とした感覚。
曖昧な感覚だが、直感は結構正しい。そこが直感の面白さ。
「直感」は基底核が担当している。
「直感」を「実感」する
「直感」は説明しづらいとのこと。ここで紹介された「ブーバ・キキ実験」は面白かった。
どちらかが「ブーバ」で、どちらかが「キキ」と読むらしい。では、どっちが「ブーバ」と発言する文字か?
なぜか答えだけがわかる。
この意味で、ブーバ・キキ試験が示すものは「直感」の存在。
「直感」を担当する基底核は「手続き記憶」、簡単に言えば「方法の記憶」、つまりテニスラケットのスイング方法、ピアノの弾き方、自転車の乗り方、歩き方、コップのつかみ方など、体を動かすことに関連したプログラムを保存している脳部位とのこと。
「身体」に関係した基底核が、なぜ身体と関係なさそうな直感に絡むのか。
それは方法記憶の特徴を挙げていけばわかる。
ひとつ目は「無意識」かつ「自動的」、そして「正確」ということ。
箸を持つ行為は何十もの筋肉が正確に動いてようやく実現できる高度な運動で、無意識の脳が厳密に計算してくれている。
だから、知らず知らずに箸を操ることができる。
ふたつ目は「繰り返しの訓練でようやく身につく」こと。
自転車も、ピアノも、ドリブルシュートも同じ。
繰り返さないと絶対に覚えない。
その代わり、繰り返しさえすれば、自動的に基底核は習得してくれる。
直感は「学習」。
直感は訓練によって身につく。
なるほどー。
第二章「脳は空から心を眺めている」では・・
脳は間違っていても「身体」はわかっている
ミュラー・リヤー錯視。同じ長さなのに、なぜか上の棒が短く見える。
ところが、この棒をつまもうとすると、どちらの棒に対しても、同じ指幅を広げてつまもうとする。
意識の上では「長さが違う」と判断しているにもかかわらず、僕らの身体は「同じ長さである」とあたかも知っているかのような行動を取る。
身体は、僕らの意識以上に、デキるヤツ。
「痛み」の脳回路が使い回されている
のけ者にされたときの脳の反応をMRIで調べると、「痛み」に反応する脳部位と同じ領野が活動したそうだ。
よく「心が痛む」「胸が痛む」というけど、まさに言葉通り「痛い」わけ。
脳から見ると、仲間外れにされたときの不快な感情は、物理的な「痛み」と同質なもの。
いじめが、いかにつらいものか、改めて思ったりした。
この「社会的な痛み」を痛覚システムで感じ取ることは、ヒト独特の「痛みの感覚」の応用、使い回し、とも捉えられるとのこと。
また、ひどいキズや、残虐なケガの話を聞くと、背筋がゾクゾクするが・・
相手の痛みを想像するときにも、痛覚系の回路が活性化する。
相手の痛みを理解する「共感」の心も、「痛み」から生まれている。
第三章「脳はゆらいで自由をつくりあげる」からは・・、まず脳の気持ちを考えよう、という話がある。
脳は真っ暗闇にいる
「自分が脳という臓器になったと仮定してみて。すると、すぐに気づくことがあるでしょ」という入りで・・
そう、脳はひとりぼっち。孤立している。いつも真っ暗闇にいる。
頭骸骨(とうがいこつ)というヘルメットの中に閉じ込められている。
脳から見ると、外の世界はまったく見えない。
つまり、脳は外の世界を直接知ることはできない。
すべての情報は「体」を通じて脳に入ってくる。
「手で触ってみる」とか「耳で聞く」とか「目で見る」とか。
身体は、脳にとって唯一の情報源、外の世界と脳とをつなぐインターフェイス。
「体あっての脳」ということを忘れてはいけない。
自分の体が「今どんな状態か」という情報が、脳にとっては重要な判断材料。
この「脳はひとりぼっちで、真っ暗闇にいる」という説明で、またすごく理解が進んだ、気がした。
いままで、そう考えていなかったから理解できなかった部分も、少しわかるようになる気がした。そして・・
身体の反応を参考にしながら、僕たちはなんとかしてこれを説明づけたいと欲する。
理由を知りたい、原因を追究したいというモチベーションが僕らの脳にプログラミングされている。
理解することは快感。
現状を矛盾なく説明するような仮説を考え出す。
脳の「ゆらぎ」で微妙に変わる
プロゴルフプレーヤーが、パッティングする時、すべて同じ条件で打ったとしても、なぜかうまくいく時と、いかない時があるのは、何で決まるのか。
結論から言うと、それは「脳のゆらぎ」で決まる。
脳回路はゆらいでいる。
どのタイミングで情報が入ってくるかによって出力が変わってしまっても、不思議ではない。
入力+ゆらぎ=出力という計算を行うのが脳。
この部分も、考えさせられてしまった。
第四章「脳はノイズから生命を生み出す」では・・
脳は勝手に「強靱な意志」を読み取ってしまう
簡単なシミュレーションでも1万回繰り返すと「意志」を感じさせる動きに見える瞬間があるという。
この根底にあるものは、簡素すぎるくらいシンプルなルールが2個あるだけ。
「意図」とか「意志」とか「生命っぽさ」は、あらかじめ驚異的な存在としてそこにあるというより、意外と簡素なルール、数少ないルールの連鎖で創発されているだけであって、その最終結果に、僕らが単に崇高さを感じてしまっているだけという気がしてくる。
そして、こんな話になってくる。
つまり、脳は「ニンゲン様に心を作ってさしあげよう」などと健気に頑張っているわけではない。
心は、脳の思惑とは関係なく、フィードバック処理のプロセス上、自動的に生まれてしまうもの。
その産物を、僕らの脳は勝手に「すごい」と感じている。
うーん、でもこれは、とても納得できる。
脳を「脳」が考えている
脳で脳を考える。
これを「リカージョン(再帰)」といって、ヒトだけが持つ力だということだ。
このリカージョンによって、ヒトは無限に数を数えたりすることができる、とのこと。
またこれによって「有限」ということを理解しているので、自殺したり、絶望することもある、とのこと。
「有限」を知っているというメタ認識こそが、ヒトをヒトたらしめている。
人間の心の面白さは、まさにそこにある。
そして、ここで、こんな話も出る。これも、確かに、そうかも!と感じた。
僕らが並行処理できることは7個まで。
7桁を超える数値を暗唱するのは、とても難しい。
小説やドラマで、主要な登場人物が7人を超えると、ものすごく複雑なストーリーに感じられる。
「忙しくてテンパっているなあ」というときは「やるべきリスト」を書き出してみると、だいたい7項目をちょっと超えているくらい。
つまり、リカージョンは無限でも、ワーキングメモリは有限だから・・
自分の心を考える自分がいる
そんな自分を考える自分がさらにいる
それをまた考える自分がいて、
・・とやっていると、あっという間にワーキングメモリはあふれてしまう。
だから、「心はよくわからない不思議なもの」という印象がついて回ってしまう。
でも、その本質は、リカージョンの単純な繰り返し。
脳の作動そのものは単純なのに、そこから生まれた「私」は、一見すると複雑な心を持っているように見えてしまう。
ただ、それだけのことではないだろうか。
ここで、この本のタイトル、「単純な脳、複雑な私」にたどり着く。なるほどー。
少なくとも言えるのは、僕らは自分で思っているほど自由ではないということ。
自由だと勘違いしているだけ、という部分はかなりある。
科学者は社会活動すべき?
「おわりに」に、ちょっと気になることが書かれていた。つまり池谷祐二さんが今後も、この本のような面白い本を書くことができるかという話。
池谷さんは、元々「ねえ、これ面白くないですか」と人に伝えたいタイプだったそうだ。しかし最近は、こうした一般書を書くような社会活動(アウトリーチ活動とも)に時間を割くことが難しくなっていることに加え、・・専門家仲間からの批判もあるとのこと。
科学は難解。一般向けに噛み砕く行為は真実の歪曲。(科学難しい・論)
研究者は科学の土俵で勝負すべき。一般書はサイエンスライターに任せるべき。(科学者の本分・論)
税金から多額の研究費が充てられている。個人の趣味に時間を費やすのは無責任。(税金ムダづかい・論)
こうした意見が池谷さんのもとに実際に寄せられているという。確かに、こういう部分もあるだろうなーと感じた。
そして、こういう寄せられる意見に対して、同感しつつも、それでも書きたい、という気持ちも、いろいろな思いを抱えながらやっていると書く。
こういうバランス感覚、というか、情報公開の考え方も、なんだかいいな、と思ったりした。