感激したときこそ よほど注意

河合隼雄さん。今ウィキペディア見たら、2007年7月に、79歳で、脳梗塞で亡くなっている。もう10年以上前だ。

人の心はどこまでわかるか (講談社+α新書)

人の心はどこまでわかるか (講談社+α新書)

相手の力を利用せよ

(あなたがスクールカウンセラーならば)担任の先生が「あれは非行少年だからどうしようもない」と言ったら、「ほう、そうなんですか」と、耳を傾けて聴く。

教師が、非行少年はいかに扱いにくいかをとうとうとしゃべるから、「ふんふん」と感心しながら聞いて、それから、「それにしても、先生、なんとかならんでしょうかね」と言ってみる。

おもしろいもので、突き放していた教師のほうから、「いや、こんないいところもチラッと見えたりするんですよ」などと言うようになる。そうしたら、すかさず「さすが先生、生徒のことよく見てますな」と感心していたら、その先生も変わってくる。

人間は関係の中に生きているから、全体の中でイメージを合わせていくがかんじん。一人が変わることで、全体が変わってきたりする。全体が見えていなければならない。

仕事に陶酔する日本人

仕事が好きな人はそれが遊びにもなっている。

仕事の中に「聖なる世界」も入っている。

勤勉に働くことが日本人の倫理観にかない、そうしているほうが快い。

「職人気質(かたぎ)」という言葉にも象徴されるように、仕事であろうとなんであろうと、ひとつのことをやるとなったら、とことん突きつめないと気がすまないところがある。

そうすることに、宗教的、倫理的陶酔を感じて、快い。

必然的に日本人は仕事時間が長くなりがち。

「タイミングの妙味」がたまらない

(継続しているカウンセリングで)こちらが完璧に体調を整えて、来たらこう言おうと待っていると、やってくるなり、「先生、(先日の話)やっぱりやめました」などと言われ、拍子抜けしてしまうことがよくある。

(カウンセリングに)いつも遅刻してくる人がいる。次回には「遅刻するなら、もう会わない」と言おうと思って待っていたら、きちんと時間通りにやって来たりする。

一生懸命やって、共感の場ができてくると、そういうことがピタッピタッとはまってくる。

人間の心の微妙さに よほど注意

もっと深いことも関わっているのだろうけど、はっきりとは意識できないものも、ある段階では、可能なかぎり言語化していくことが必要。

あまり言語化を焦りすぎると、どうしても上滑りになって、深い部分が捨てられてしまう。

言語化する場合にも、どの程度まで表現できているかということを、いつもわきまえていなければならない。

それをいつ、どのように表現するかということも重要。

いったん言語化されると、あたかもそれがすべてであるかのような錯覚を招きがち。

もっとも困るのは、ある事例研究を読んでいたく感激し、「あの方法がいちばん正しい」とか、「あれしかない」とか思ってしまうこと。

末梢的(まっしょうてき)なところを普遍化するというのがいちばんこわい。

微妙な人間の心をあつかうときには、よほど注意しなければならない。

読みながら「うーん、こういう部分は、わりと常識的な意見だよなあ」とか油断していると、読む側のユルさをズバッと突いてくる箇所がある。

自分のユルさを改めて感じた。