「電信柱の陰」で観察しよう

明日があるさ、宇宙人ジョーンズ、トヨタReBORNなどのCMプランナー、福里真一さんの本。数年ぶりに読み返した。

電信柱の陰から見てるタイプの企画術 (宣伝会議)

電信柱の陰から見てるタイプの企画術 (宣伝会議)

以前読んだときは、面白いとは思ったけど、全体的には、ふーん、ぐらいの感想だったかなー。

改めて読んで、感じたこと。

  • 「電信柱の陰から見てるタイプの企画術」というタイトルのすばらしさが、この本の価値の半分くらいあるかも。人気者や目立つ人をうらやましがっているようで、見てること自体を楽しんでいるようで、オリジナルな感じもして、いい位置にいる感じの言葉だなーと思う。

  • なかなか本論に入らないグダグダっぽい書き方も、とてもうまいというか、「まあ、私なんて、あれですから・・」でグルグルしながら、電信柱から出てこない感じが、書き方で自然に出ていて、すばらしいと思う。

  • 「求められていることを、持っている力でやる」というシンプルな仕事観も、前ふりでいろいろ引っ張っている分、効いているなと思う。

福里さんご自身が言う通り、きっと「切れ者」という感じではないのだろうけど、着々と自分のペースに人を巻き込んでいく人なんだろうな。そういう独特のノリの人だから、なんとなく、まわりが着いて行くのかな。

読むなかで、いい話だなーと思ったのは下記の点。

「電信柱の陰」の定義のゆるさ

「電信柱の陰」は(頑張っている人たちを)からかったり批判したりする場所ではありません。

基本的には「みんなえらいなー」と感心し、時には積極的に陰から身を乗り出して自分も祭りに参加したりする。

でも、次の瞬間には、電信柱の陰にぱっと引っ込んで、様子を眺めるのに徹したりもする、そういう場所です。

そして、こう、落とす。

うーん、でも本当は別にそんな場所なくてもいいような気もしますね。

自分で言い出しておいてなんですが。

こういう感じ、すばらしい。

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「できること」しかできない

また、これはとても共感したことだけど・・。

世の中の人々は「とんち」(=誰も思いつかなかったような見事な解決法)のあるなしで、CMの好き嫌いを決めているわけではない。

福里さんは、若いときは「とんち」がないといけないと思い込んでいたけど、CM「明日があるさ」はベタで、とんちゼロなのに、評価された。

そのときに、上記のようにはじめて感じた、とのこと。

そして、与えられた場所での、自分の関わり方も、それをきっかけに見えてきた、とのこと。

私がここで何を言いたいかというと、「人は、自分にできることしか、できない」ということなんです。

こんなに大事なことをさりげなく言いすぎでしょうか。

ただ、「とんちは、必要不可欠ではない」というような話って、頭ではわかっても・・、実際は、作るときに、何か、自分(たち)にしかできない、かっこいい、気のきいたことやらないと!と「無意識に」思っちゃったりするから・・、難しい。

「ニュース番組の逆」が狙い

あの宇宙人ジョーンズのCMが、ニュース番組への違和感で始まったことも面白い。

ニュース番組って、あんなにたくさん必要なんでしょうかね。

しかもニュースになるネタというのは、大半が、人間のろくでもなさを報じるネタですよね。

殺人事件やら放火事件やらから始まって、戦争やテロ、地球環境がめちゃめちゃになっていること、政治家の汚職や問題発言、芸能人の離婚や不倫などなど。

一日中、あれだけ、人間の悪いところばっかりを集めてきて報道していたら、そりゃ多くの人が、なんか元気をなくしていきます。

一番見ちゃいけないのがニュース番組なんじゃないでしょうか。

人類無気力化装置。それが、ニュース番組なのでは?

うーん、共感しつつも・・、ちょっと、そこまでは・・、とも思ったが、そのあと・・。

サントリーさんから、「人々を元気づけるようなCMを」と言われて、ニュース番組の逆、みたいなCMにしたらどうか、と思ったんですよね。

人間の醜い部分ばかりを集めて報じるのがニュース番組だとしたら、人間のバカバカしいけど愛せる部分とか、そうは言っても捨てたもんじゃない、という部分を報じるようなCMを作ってみたらどうか、と。

そして、それがなぜ、「宇宙人」になったかというと・・。

その時に、人間について報じるのが、人間自身だと、なかなか客観的な報道もできないでしょうから、人間以外がいいな、と。

だったら、宇宙人か、と思い、「宇宙人による地球調査」という企画が生まれたわけです。

そして、ここが「電信柱の陰」につながる。

そういうわけで、地球調査にやってきた宇宙人が、地球人のことをやや皮肉っぽい目線で見ながらも、なんとなく徐々に憎からず思い始める、というようなフレームで、具体的なCMの企画を考え始めたわけですけど、これが、ものすごく考えやすいんですね。

そもそも私自身が、この宇宙人とそっくりな部分があった。

地球人の輪に入れないまま、やや離れたところから、地球人たちのことを、皮肉めいた、でも決して悪意ではない目線で見ている。考えてみると、なんだか同じだなあ、と。

まさに、「電信柱の陰から見てるタイプ」であることが、ここにきて、生きてきたわけです。

そう、つながるから、うまいなー。

「普通に考えて」がやや口ぐせ

ここも、自分もそうありたい、と思ったところ。

私、「普通に考えて」という言葉がやや口ぐせなんですけど、普通の人が、普通に考えればこう考える、とか、普通の人が普通に感じればこう感じる、とか、そういう感覚にわりと自信を持っているし、そういう感覚をすごく大事にしよう、という気持ちがあるんですよね。

「人生と、関係したい」ぐらいで

福里さんが一番好きなコピーは、アップルコンピュータが90年代前半に、それまで仕事で使われることの多かったパソコンを家庭で使ってもらおうという意味を込めた「人生と、関係したい」というコピーだったそうだ。

普通、広告って、あなたの人生をよくします、あなたの人生がこうよくなります、というところまで言おうとするんですけど、そこまで言わずに、いや、ちょっと関係したいだけです、というぐらいにとどめているところがいいんじゃないかなと。

謙虚な感じがすごくいいなと思ったんですね。

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記憶の多さを企画で生かせ

最後は、福里さんの企画術。

ゼロから企画を思いつくことはできない。

必ず、過去の何かから、何かを思いつく。

その過去の何かというのが、結局はその人のすべての記憶、ということ。

どんなに新しいといわれる発想も、必ず、過去の何かをきっかけに、あるいは、過去の何かと何かの組み合わせで、生まれてきた。

そしてまた「電信柱の陰」になる。

電信柱の陰から見てるタイプというのは、記憶を多く持っている人なのかもしれません。

電信柱の陰から見ていると、そもそも、その出来事に参加している人たちへのうらやましさもありますから、何から何までじっと観察していて、驚くほどいろいろなことを覚えている。

その記憶の多さを、せめて企画という場で活用しよう、というのが、この本の趣旨だったわけです。

電信柱の陰から見なくても、記憶の多い人はいるかもしれないけれど、でも、何かを、ちょっと離れた場所から、じーっと見る、そういう「観察力」って、大事だと改めて思う。

  • 「とんち」は必ずしも必要ない

  • 「普通の人の感覚」から離れないで

  • 「ちょっとだけ」の謙虚さも大事

・・とても共感できる話にあふれた本だった。

私たちは「有意義病」だ

精神科医の泉谷閑示(いずみや・かんじ)さんの本。幻冬舎新書の紹介文を読んで興味を持ち、購入した。

本のタイトル「仕事なんか生きがいにするな・生きる意味を再び考える」、そのままの本。

「生きる意味」なんて、かなり青くさい言葉かも、と最初は少し思ったが、考えさせられる文章がいくつもあった。

「方便」が自己目的化している

私たちはついつい「役に立つか立たないか」を性急に求めて、近視眼的に、目に見えてすぐ役立つものに傾倒してしまう。

「すぐに役立つこと」とは「売れること」に直結してしまっている。

「売れること」を追求するとなれば「わかりやすい」「簡単」「役に立つ」「面白い」といったアピールポイントが求められる。

その結果、本来は奥行きのある「質」を追求すべきものまでが、離乳食化したり、陳腐化する事態がはびこっている。

「質」の低下について制作側の人たちに問いかけてみても、返ってくる反応は大概、「どんなきっかけでもいいから、まずは見てもらえなければ始まらない」「まずは書店で手に取ってもらえなければ始まらない」といった類。

そういった要素を無視できない事情は理解できるが、不本意な妥協を強いられているうちに、送り手側は当初の志をどこかに置き忘れてしまい、「方便の自己目的化」という深い罠にはまってしまったのではないか。

自分の経験上、とても思い当たる。

というか、「今の時代、みんな忙しいのだから、難しいこと長々やってたってダメ。役に立つことを、短く、端的に」という指摘に、表だって反対することは誰にもできないから、ズルズル押し切られてしまう感じ。

確かに、方便が自己目的化していて、実際は見てもらう数が本当に増えているのか、わからない感じがあるのに、よほどのことがないかぎり、もう立ち戻ることはない。

二次的情報で判断が甘くなる

「頭」で判断してしまう傾向の人々が陥りやすい罠がある。

作品や演奏そのものではなく、そこに付随してくる二次的情報に惑わされて、判断が甘くなること。

特に、コンクールなどで評価されたものは、専門家が評価したのだからきっと素晴らしいに違いない、と思われる方も少なくないでしょうが、これがはなはだ信用ならない。

芥川賞だの、ショパンコンクールだの、ノーベル賞だの、二科展だの、まあすごいのかもしれないけれど、完全思考停止で「とにかくすごい」みたいになってるパターン、本当に多いと思う。

どこがすごいか全然わからないのに、でもすごい、みたいな報道の感じには、自分も、よく違和感があった。

夏目漱石の「素人と黒人(くろうと)」というエッセイには「黒人(玄人)」つまり専門家の判断に惑わされてはならないと、きっぱり述べられている。

真に良質のものは、たとえ素人であってもわかるはず。いや、むしろ素人の方が妙な先入観がない分、判断が曇らないだろう漱石は言っている。

ただ素人でも、「わかる・わからない」「知っている・知らない」という「頭」レベルで安易に判断したり、二次的情報で左右されてしまう場合は、その判断はまったく信用できないものとなる。

漱石はこれを「つまらない素人」と呼び、「つまらない素人になれば局部も輪廓もめちゃめちゃでわからないのだから、そんな人々は自分の論ずる限りではない」と断じている。

泉谷さんは、「つまらない素人」とは、ムラ社会に典型的な人間像だとして、こう指摘する。

彼らは、「自分の慣れ親しんだ範疇を超えたものに対しては、下らない!と価値の切り下げを行う頑固さ」「既存の権威や情報操作にあっけなく盲従してしまう柔軟性」を併せ持つ。

あの人ってそうだよなー、と頭に浮かぶ人がいるが、・・自分自身にも、こういう面がないとは全然言えない。というか、自分のそういう面は絶対見えないから、よほど気をつけないといけない。

こういう話の中で、我々現代人は生きる意味を見失っているのではないか、「働くとは何か」という根源的な意味を考えてみる必要がある、という泉谷さんの話をもっと聞きたい感じになる。

「本当の自分」論を馬鹿にするな

「本当の自分」などというと、よく下記の指摘があるという。

「本当の自分」などというものは、そもそも知ることもできないし、その存在を証明することもできない。

私自身もこういう考えだが、泉谷さんはここに反論する。

これらは、客観という狭い合理性の範囲内で認識できるものだけを厳密に扱おうとする立場。

原始的な盲信や宗教的思考停止を払拭するために、合理的、科学的思考を旨とする。

これが今日の物質的繁栄をもたらしたことは言うまでもないが、ここで問題になっている「本当の自分」を求める人々の心性に対して、この考え方を適用するのは、原理的に無理がある。

人間というものは、「客観」によってではなく、「主観」やイメージによって規定される生き物であることを念頭に置き、そこから人間を考えなければ、本当のことは見えてこない。

そして泉谷さんは、日々の臨床の中で、「心的現実」が人間の在り方に決定的な影響力を持つことに驚嘆させられているという話を出す。

一般に想像されていることとは違って、「心的現実」の変化によって起こる変化は、薬物などによる化学的作用をはるかに凌駕する、ダイナミックで本質的なもの。

身体医学的アプローチが空振りに終わった慢性的身体疾患でさえ、「心的現実」への働きかけで劇的に解決することも決してめずらしくない。

うーん、「本当の自分」論を、頭から否定してはいけないなー。

「意味」と「意義」を取り違えるな

現代に生きる私たちは、何かをするに際して、つい、それが「やる価値があるかどうか」を考えてしまう。

価値があるならやる、なければやらないという考え方に「意義」という言葉は密接に関わっている。

つまり私たちが「有意義」と言う時には、それは「何らかの価値を生む行為」と考えている。

泉谷さんはこの「有意義」が私たちを窮屈にしているという。

たとえば、うつ状態に陥った人たちが療養せざるを得なくなってまず直面するのが、「有意義な過ごし方ができなくなってしまった苦悩と自責」。

働くとか、学校に行くといった「有意義」なことができない自分を「価値のない存在」と責めてしまう。

問題なく動けて社会適応できている時には気づきがたいことだが、私たち現代人は「いつも有意義に過ごすべきだ」と思い込んでいる、一種の「有意義病」にかかっているようなところがある。

「有意義病」って、すごくよくわかる。

学校行かなくたって、働かなくたって、別に、死ぬわけじゃないんだし、全然、自責の念にかられる必要ないんだけど、なんとなく、有意義でないことをしていることに耐えられない感じになってしまう。うん、「病気」かもしれない。

一方、「意味」というものは、「意義」のような「価値」の有無を問うものではない。

他人にどう思われるかに関係なく、本人さえそこに「意味」を感じられたのなら、「意味がある」ということになる。

つまりひたすら主観的で感覚的な満足によって決まるのが「意味」。

「意義」とは、我々の「頭」の損得勘定に関係しているもの。

「意味」とは、「心=身体」による感覚や感情の喜びで捉えられるもの。そこに「味わう」というニュアンスが込められている。

なるほど、そう整理されるのか。

しかし現代人が「生きる意味」を問う時には、ともすれば「意味」と「意義」を混同して、「生きる意義」や「価値」を問うてしまっていることが少なくない。

これが問題を余計難しくしてしまっている。

うん、考えさせられる。

「労働教」から脱出せよ

我々は、ともすれば対象そのものの本質から外れて、手段や副産物を目的と捉えがちなところがある。

良き学歴を得て、良き就職をし、良き社会的地位や収入を得て、結婚し、子どもをもうけ、家を持ち、子どもを良き学校に入れ、良き習い事をさせ、等々。

これら多くの人の躍起になって追いかけている「価値」も、元来は、幸せに生きることを目指しての方便にすぎない事柄だったはずなのだが、いつの間にか、それ自体が目的化してしまった。

そして泉谷さんは、現代の「本当の自分」探しが、自分にふさわしい「仕事探し」にすり替わっているという指摘を紹介して次のように書いている。

一個の人間は、一つの職業に包摂されるほど小さくはないと私は考える。

私たちに問われているのは、「労働」をやみくもに賛美する「労働教」から脱して、今一度、大きな人間として復活すること。

ここまで読むと、この主張も、とても頭に入った。

生きることを「味わう」

人生を「味わう」ことが、どこか背徳的なことであるかのように見なされ、せいぜい「労働」という苦役を果たした後に、やっと「ご褒美」でわずかに許されるものと捉えられている実情が未だに続いている。

会社で、自分の仕事が終わったからと言って自分だけ帰ることがはばかられたり、有給休暇が申請しづらかったりするようなことは、まさしくその典型的な表れ。

・・自分にも、そういう感情、当然、思い当たる。

泉谷さんは、人生を「味わう」ために、もっと遊ぼう、と書く。

効率主義を含む合目的的な思考は、ビジネスのみならず現代人の思考全般にすっかり浸透している。

どんな小さな選択でも「役に立つか?」「損か、得か?」「コストパフォーマンスは?」「保証は?」「メリット、デメリットは?」「リスクは?」と考えるくせがついてしまった。

「結局」「所詮」「面倒くさい」といった言葉が乱発されるようになり、「余計なこと、無駄なことはしないのが賢明」と考えるようになってしまった。

ところがそもそも「遊び」は「無駄」の上にこそ成り立つ。「結果」はあくまで二次的にすぎない。「プロセス」にこそ面白味があるもの。

今日の合目的的な思考に偏ったメンタリティでは、およそ「遊び」など入り込む余地はない。

どこか、養老孟司さんの「脳化社会」的な考え方に通じる指摘だなと考えた。

泉谷さんは2つの提案をする。

あえて、無計画、無目的に、自分の行動を「即興」に委ねてみる。

「面倒くさい」と感じることを、むしろ積極的に歓迎してみる

そして、こんな提案も・・

私たちは、もはや「何者かになる」必要などなく、ただひたすら何かと戯れてもよいのではないか。それこそが「遊び」の真髄。

「心」の向くまま、気の向くまま、気軽にやってみる。気が向かなければやらない。

「継続」などと堅苦しく考えたりせず、ただ壮大な人生の「暇つぶし」として「遊ぶ」。

・・うーん、どんどん、解放されるというか、まあ気持ちはラクになる。

また、この本には、「働かざる者、食うべからず」という言葉と、「アリとキリギリス」が、日本人の労働観に大きな影響を与えているという指摘もある。

確かにそう思うが、この点は、ちょっと複雑だなと思う。

というのは、本当に働いていない人を見たらすぐに「バカ野郎、働け!働かざる者、食うべからず、だぞ!」「アリとキリギリスを見ろ!働かなかったら、キリギリスみたいになるぞ!」なんて、本人に直接言うような、そんな、おかしな人はそうはいないと思うから。

・・まあ、幼児期に、絵本で読むときは、「ちゃんと働いたから、アリさんはえらいね」くらい、言うだろうけど。

社会適応できて、働いている人にとって、「働かざる者、食うべからず」や「アリ信仰」は、もっと感情の深いところに、静かに置いてあるもので、ふだんはあまり意識しない気もする。

だから、何らかの事情で学校や職場に通えない人には、まずは「ああ、気の毒に・・」という思いが先に来ると思う。

むしろ、いま学校に行くことや、働くことができない人が「働かざる者、食うべからず」「アリ信仰」を過剰に意識してしまいがちの面がありそうだ。そんなに意識しなくていいのに、「有意義病」の社会の根底にある心理を敏感に感じとってしまっている気がする。

だから、やはり、アリ信仰と決別すべき、という指摘が最後にある。

ご承知の通り、私たち日本人は勤勉や忍耐を美徳とし、後々に備えて貯蓄をすることを良しと考える傾向がことのほか強く、「アリとキリギリス」のアリのように生きるべきと考える人が圧倒的なマジョリティ。

しかし実際のところ、「今を生きること」を犠牲にして貯め込んではみたものの、特にこれといった使い道はなく、結局のところ使い切れなかった遺産が、骨肉の相続争いの種になる。

これは、我々の身近にいくらでも存在する、かなりポピュラーな顛末。

このようなアリ信仰は、禁欲的に労働して未来に備えることを過度に賛美し、その反作用として「今を生きる」「生きることを楽しむ」ことを「良からぬこと」と捉えるような、倒錯した価値観を生み出した。

「苦しいこと」「我慢すること」こそ正当なことで、「楽しむこと」「心地よいこと」は堕落だとして罪悪感を覚える。

そういうメンタリティで窮屈な人生を送っている人は、今日でも決して少なくない。

私たちはもう二度と、貴重な「人間らしい生」を犠牲にしてはならない。

よく、現代の「生きづらさ」みたいな話があって、「それは、甘えだ」という反発もある。

泉谷さんは、見えにくい、意識しにくい、日本人の心の内側、底の部分を、解きほぐしていく感じ。

こういうふうに説明してもらえると、「生きづらさ」議論もわかりやすいのに・・、と思う。

  • 生きる意味

  • 方便や手段、副産物の自己目的化

  • 「有意義病」

  • 「労働教」

  • 「アリ信仰」

・・こうした言葉を、ひとつひとつ、ひっくり返していく感じ。

人生の課題について、すごくストレートで、そして、深い本だ。

人体の不思議 概説

坂井建雄さんの本ということ。

また、書店でパラパラ見て、興味を持てそうな項目があったので購入。

面白くて眠れなくなる人体

面白くて眠れなくなる人体

ノド、ウンコ、オシッコ、脳、血液、リンパ液、CTとMRI、目、鼻、性別、内臓、進化。

ミニ知識もいろいろ。

楽しく読むことはできたが、むしろ、項目ごとにもっと知りたいのに・・、という気持ちにもなった。

坂井さんの他の本も見てみよう。

脳は「おっちょこちょい」

面白かった「進化しすぎた脳」の続編ということで購入した。

静岡県出身の池谷さんが、母校の高校生に対して行った、連続講義をまとめたもの。

本の全体のイメージは、長崎訓子さんのイラスト表紙そのもの。人間が、脳をのぞき込んで、いろいろ考える感じ。

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面白いなーと思った点は、章ごとに、下記のようなこと。

第一章「脳は私のことをホントに理解しているのか」では・・

科学が証明できるのは「相関関係」だけ

えっ、という話。

そんなわけ、ないじゃない、と思ったら・・

私が特に強調したいことは、サイエンス、とくに実験科学が証明できることは「相関関係」だけだということ。

「因果関係」は絶対に証明できない。

プロの立場から言わせていただくと「脳は相関が強いときに、勝手に『因果関係がある』と解釈してしまう」もの。

たとえば「解熱剤を服用したら熱が下がった」としても、科学的には「解熱剤を飲んだ『から』熱が下がった」ということを厳密には証明できない。

なぜなら、解熱剤を飲まなくても熱は下がったかもしれないから。

うーん・・、確かに、そうだ。

怪しい薬でも「効いた」、みたいな話は、この可能性を排除しているんだよな。改めて、考えると。

そこで科学者たちは「解熱剤を飲まなかったときの治癒率」と「飲んだときの治癒率」を比較する。

両者の治癒率に「統計学的に有意な差」があるかどうかを検定する。

統計学は「相関の強さ」を扱う学問であって、「因果関係」を証明するツールではない。

統計によって見出された「差」は「そういう傾向がある」という以上の意味を持たない。

・・うーん、病院で処方される薬と、怪しい薬の違いは、厳密に言うと、相関の強さだけなのかー。そう考えると、心もとない気もするが、・・まあ、厳密には、そうだよな。

科学的に因果関係を導き出せないとすると、この世のどこに「因果関係」が存在するのか。答えは「私たちの心の中に」。

つまり、脳がそう解釈しているだけ。

因果とは脳の「錯覚」。

日常生活では「因果関係がある」と勘違いしていても問題ないケースがほとんど。

でも、科学の現場では因果関係を盲信しすぎると大変な誤解を生みかねない。

うーん、「科学の限界」「謙虚な姿勢を忘れずに」という指摘は、考えさせられた。

脳は「頑固」

脳の「解釈」から逃れられないことが、改めて強調される。目の錯覚の下記の例。

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上記の)4の棒が同じ長さのペアだと正しい知識を教わっても、やっぱり縦棒が長く見えちゃう。

脳のやっていることは、世界をただ写しとって見るのではなくて、思い込みで解釈すること。

脳の作用は相当に頑固で、残念ながら、その解釈から私たちは逃げることができない。

池谷さんの本で何回か出てくることだけど、改めて大事なことだと思う。

脳は「おっちょこちょい」

解釈は「意味の見出し」でもある、という指摘も改めて出る。

(私たちは)見ているものを解釈し、なんとか「意味」を見出そうとしている。

「全体をひとまとめに認識するやり方」のことをゲシュタルト群化原理」というそうだ。(※ちなみに文字をずっと見ていると、その文字が意味のない形に見えてしまうことを「ゲシュタルト崩壊」とか言われる)

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たとえばみなさんが、ジャングルの小動物だとしましょう。

木陰で休んでいたら、茂みに何か動くものを見つけたと。

そのときにゲシュタルト群化原理が働かず、悠長に構えていたのでは危険。

確かに、いち早く、茂みの中にわずかに見える部分的なものを「ひとまとめ」にして、危険なものかどうか、察知(早合点)しないと危ない。

ゲシュタルト群化原理が備わった動物のほうが生存に有利。

ヒトは、この意味で、ゲシュタルト群化原理がものすごく発達した動物。

なるほど、そう考えると、勝手に意味づけすることの利点がはっきりする。

野生の世界では、手遅れになって命を落とすより「早とちり」した方がはるかにマシ。

脳には、そんな側面が色濃く残っていて、つい早合点しちゃう。

脳って、おっちょこちょい。

そんな愛らしいところもある。

「脳は勝手に意味づけするから気をつけよう!」ではなく、おっちょこちょい、愛らしい、ぐらいの、あたたかい目線も大事だなと思う。

脳は「勘違いな理由づけ」を始める

これも、自分の行動を振り返ると、よくやってしまっているなーと思うこと。下記の好みの男性を選ぶ実験。

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(A)のように左右交互に見せると、長い時間を見たほうが好みになるそうだ。

(「単純接触現象」という)何度も接していると、もうそれだけで好きになってしまう性質が脳にはある。

ところが(B)の場合は、どちらかを長く見せても、好みにはならないとのこと。それは、こういうことだという。

つまり「視線を動かすかどうか」がポイント。視線を動かすことによって感情が引き出される。

「私がわざわざ視線を動かしてまで見に行っているのだから、それだけ魅力的な人に違いない」と脳は解釈する。

困った性質というか、面白い性質というか、広い意味で「錯誤帰属」と呼んでいい。

錯誤帰属は、自分の行動の「意味」や「目的」を、脳が早とちりして、勘違いな理由づけをしてしまうこと。

脳はアホなんです。

うーん、やってる、やってる。

「苦労した分、このほうが正しい」とか、無根拠でよく決めつけていると、改めて思う。

 

「直感」と「ひらめき」は違う

脳機能の視点から見ると、「直感」と「ひらめき」は、まるで別物なのだという。

「ひらめき」は思いついたあとに理由が言える。

「これこれ、こうだから、こう。さっきまでわからなかったが、いまならわかる」というふうに理由が本人にわかる。

「ひらめき」は理屈や論理に基づく判断だから、おそらく大脳皮質がメインで担当している。

「直感」は自分でも理由がわからない。

「ただ、なんとなく」という漠然とした感覚。

曖昧な感覚だが、直感は結構正しい。そこが直感の面白さ。

「直感」は基底核が担当している。

「直感」を「実感」する

「直感」は説明しづらいとのこと。ここで紹介された「ブーバ・キキ実験」は面白かった。

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どちらかが「ブーバ」で、どちらかが「キキ」と読むらしい。では、どっちが「ブーバ」と発言する文字か?

なぜか答えだけがわかる。

この意味で、ブーバ・キキ試験が示すものは「直感」の存在。

「直感」を担当する基底核は「手続き記憶」、簡単に言えば「方法の記憶」、つまりテニスラケットのスイング方法、ピアノの弾き方、自転車の乗り方、歩き方、コップのつかみ方など、体を動かすことに関連したプログラムを保存している脳部位とのこと。

「身体」に関係した基底核が、なぜ身体と関係なさそうな直感に絡むのか。

それは方法記憶の特徴を挙げていけばわかる。

ひとつ目は「無意識」かつ「自動的」、そして「正確」ということ。

箸を持つ行為は何十もの筋肉が正確に動いてようやく実現できる高度な運動で、無意識の脳が厳密に計算してくれている。

だから、知らず知らずに箸を操ることができる。

ふたつ目は「繰り返しの訓練でようやく身につく」こと。

自転車も、ピアノも、ドリブルシュートも同じ。

繰り返さないと絶対に覚えない。

その代わり、繰り返しさえすれば、自動的に基底核は習得してくれる。

直感は「学習」。

直感は訓練によって身につく。

なるほどー。

第二章「脳は空から心を眺めている」では・・

脳は間違っていても「身体」はわかっている

ミュラー・リヤー錯視。同じ長さなのに、なぜか上の棒が短く見える。

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ところが、この棒をつまもうとすると、どちらの棒に対しても、同じ指幅を広げてつまもうとする。

意識の上では「長さが違う」と判断しているにもかかわらず、僕らの身体は「同じ長さである」とあたかも知っているかのような行動を取る。

身体は、僕らの意識以上に、デキるヤツ。

「痛み」の脳回路が使い回されている

のけ者にされたときの脳の反応をMRIで調べると、「痛み」に反応する脳部位と同じ領野が活動したそうだ。

よく「心が痛む」「胸が痛む」というけど、まさに言葉通り「痛い」わけ。

脳から見ると、仲間外れにされたときの不快な感情は、物理的な「痛み」と同質なもの。

いじめが、いかにつらいものか、改めて思ったりした。

この「社会的な痛み」を痛覚システムで感じ取ることは、ヒト独特の「痛みの感覚」の応用、使い回し、とも捉えられるとのこと。

また、ひどいキズや、残虐なケガの話を聞くと、背筋がゾクゾクするが・・

相手の痛みを想像するときにも、痛覚系の回路が活性化する。

相手の痛みを理解する「共感」の心も、「痛み」から生まれている。

第三章「脳はゆらいで自由をつくりあげる」からは・・、まず脳の気持ちを考えよう、という話がある。

脳は真っ暗闇にいる

「自分が脳という臓器になったと仮定してみて。すると、すぐに気づくことがあるでしょ」という入りで・・

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そう、脳はひとりぼっち。孤立している。いつも真っ暗闇にいる。

頭骸骨(とうがいこつ)というヘルメットの中に閉じ込められている。

脳から見ると、外の世界はまったく見えない。

つまり、脳は外の世界を直接知ることはできない。

すべての情報は「体」を通じて脳に入ってくる。

「手で触ってみる」とか「耳で聞く」とか「目で見る」とか。

身体は、脳にとって唯一の情報源、外の世界と脳とをつなぐインターフェイス

「体あっての脳」ということを忘れてはいけない。

自分の体が「今どんな状態か」という情報が、脳にとっては重要な判断材料。

この「脳はひとりぼっちで、真っ暗闇にいる」という説明で、またすごく理解が進んだ、気がした。

いままで、そう考えていなかったから理解できなかった部分も、少しわかるようになる気がした。そして・・

身体の反応を参考にしながら、僕たちはなんとかしてこれを説明づけたいと欲する。

理由を知りたい、原因を追究したいというモチベーションが僕らの脳にプログラミングされている。

理解することは快感。

現状を矛盾なく説明するような仮説を考え出す。

脳の「ゆらぎ」で微妙に変わる

プロゴルフプレーヤーが、パッティングする時、すべて同じ条件で打ったとしても、なぜかうまくいく時と、いかない時があるのは、何で決まるのか。

結論から言うと、それは「脳のゆらぎ」で決まる。

脳回路はゆらいでいる。

どのタイミングで情報が入ってくるかによって出力が変わってしまっても、不思議ではない。

入力+ゆらぎ=出力という計算を行うのが脳。

この部分も、考えさせられてしまった。

第四章「脳はノイズから生命を生み出す」では・・

脳は勝手に「強靱な意志」を読み取ってしまう

簡単なシミュレーションでも1万回繰り返すと「意志」を感じさせる動きに見える瞬間があるという。

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この根底にあるものは、簡素すぎるくらいシンプルなルールが2個あるだけ。

「意図」とか「意志」とか「生命っぽさ」は、あらかじめ驚異的な存在としてそこにあるというより、意外と簡素なルール、数少ないルールの連鎖で創発されているだけであって、その最終結果に、僕らが単に崇高さを感じてしまっているだけという気がしてくる。

そして、こんな話になってくる。

つまり、脳は「ニンゲン様に心を作ってさしあげよう」などと健気に頑張っているわけではない。

心は、脳の思惑とは関係なく、フィードバック処理のプロセス上、自動的に生まれてしまうもの。

その産物を、僕らの脳は勝手に「すごい」と感じている。

うーん、でもこれは、とても納得できる。

脳を「脳」が考えている

脳で脳を考える。

これを「リカージョン(再帰)」といって、ヒトだけが持つ力だということだ。

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このリカージョンによって、ヒトは無限に数を数えたりすることができる、とのこと。

またこれによって「有限」ということを理解しているので、自殺したり、絶望することもある、とのこと。

「有限」を知っているというメタ認識こそが、ヒトをヒトたらしめている。

人間の心の面白さは、まさにそこにある。

そして、ここで、こんな話も出る。これも、確かに、そうかも!と感じた。

僕らが並行処理できることは7個まで。

7桁を超える数値を暗唱するのは、とても難しい。

小説やドラマで、主要な登場人物が7人を超えると、ものすごく複雑なストーリーに感じられる。

「忙しくてテンパっているなあ」というときは「やるべきリスト」を書き出してみると、だいたい7項目をちょっと超えているくらい。

つまり、リカージョンは無限でも、ワーキングメモリは有限だから・・

  • 自分の心を考える自分がいる

  • そんな自分を考える自分がさらにいる

  • それをまた考える自分がいて、

・・とやっていると、あっという間にワーキングメモリはあふれてしまう。

だから、「心はよくわからない不思議なもの」という印象がついて回ってしまう。

でも、その本質は、リカージョンの単純な繰り返し。

脳の作動そのものは単純なのに、そこから生まれた「私」は、一見すると複雑な心を持っているように見えてしまう。

ただ、それだけのことではないだろうか。

ここで、この本のタイトル、「単純な脳、複雑な私」にたどり着く。なるほどー。

少なくとも言えるのは、僕らは自分で思っているほど自由ではないということ。

自由だと勘違いしているだけ、という部分はかなりある。

科学者は社会活動すべき?

「おわりに」に、ちょっと気になることが書かれていた。つまり池谷祐二さんが今後も、この本のような面白い本を書くことができるかという話。

池谷さんは、元々「ねえ、これ面白くないですか」と人に伝えたいタイプだったそうだ。しかし最近は、こうした一般書を書くような社会活動(アウトリーチ活動とも)に時間を割くことが難しくなっていることに加え、・・専門家仲間からの批判もあるとのこと。

  • 科学は難解。一般向けに噛み砕く行為は真実の歪曲。(科学難しい・論)

  • 研究者は科学の土俵で勝負すべき。一般書はサイエンスライターに任せるべき。(科学者の本分・論)

  • 税金から多額の研究費が充てられている。個人の趣味に時間を費やすのは無責任。(税金ムダづかい・論)

こうした意見が池谷さんのもとに実際に寄せられているという。確かに、こういう部分もあるだろうなーと感じた。

そして、こういう寄せられる意見に対して、同感しつつも、それでも書きたい、という気持ちも、いろいろな思いを抱えながらやっていると書く。

こういうバランス感覚、というか、情報公開の考え方も、なんだかいいな、と思ったりした。

大脳生理学の「最前線」

池谷裕二さんの本は面白いなーということで、買ってそのままだった、この本を読む。

池谷さんが、自分の専門の「大脳生理学」で何をやっているかをベースに、NYの日本人高校生に講義する本。

表紙にイラストレーターの長崎訓子(くにこ)さんの絵があるけど、まさにこんな感じ。

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池谷さんは長崎さんのイラストをとても気にいっているようだ。確かに「いいイラストはとても理解を高めるなー」と、自分もすぐに影響を受けて好きになってしまった。

ちなみに、長崎訓子さんは、検索してみたら、これまでも何度も印象に残る表紙イラストを書いている著名な方。自分にも、印象に残っている長崎さんの絵がたくさんあることを知った。

だけどこれまでは、「単なる、一消費者として」表紙を見ただけで、改めて、イラストの作者を調べたりしていなかった。自分の不勉強ぶりを思う。

「おっ、これは!」と思ったら調べる。というか、「おっ!と、思っていること」にもっと自覚的になって、注意していないといけないな。なかなか簡単ではないけど。

各章ごとに、読みながら、そうなのかーと思ったのは下記のような点。

第一章「人間は脳の力を使いこなせていない」では・・

「念じるだけ」で体を動かすことができるかも?

よく図鑑には掲載されているそうだが、自分はまったく覚えていなかった話。

脳には「体性感覚野」というものがあって、顔、目、鼻、口、指、胴体、足などに対応する部分が並んでいる。「脳地図」と呼ぶそうだ。

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ネズミやサルに電極を埋めて、特定の部位を刺激すると、レバーを押したり、ロボットアームを動かす実験はうまくいっているとのこと。つまり器具を脳から直接に遠隔操作することが動物実験では可能になっている。ということは・・

交通事故などで全身不随になった患者でも、念じるだけで義手なり義足を動かせるようになる。

もしかしたら車椅子も動かせるかもしれない。

体の代わりになる機械を神経を通じて操縦する手法を研究する分野を「神経補綴(ほてい)学」という。

アメリカではこの池谷さんの講義をやっているころの2004年に脳チップを埋め込む臨床実験が行われたようだけど、どうなっているのかな。

「脳地図」は変化しうる

ここも驚いた。

「脳地図」はかなりの部分で後天的なもの。

脳の地図は、脳が決めているのではなくて、体が決めている。

たとえば事故で手を失ってしまった人の場合、失われた手に対応していた脳の部分はどんどん退化していく。

バイオリニストの脳を調べてみると、指に対応する脳の部分がよく発達している。

そして、こんな話も。

脳だけ見るとイルカの脳はすごく高性能。

体がヒトほど優れていなかったために、イルカの脳は十分に使い込まれていない。

何が重要かというと、脳そのものよりも、脳が乗る体の構造と、その周囲の環境。

クロマニョン人は現代にも通用するような脳をすでに持っていた。

ネアンデルタール人にいたっては現在の私たちよりも大きな脳を持っていた。

ここで池谷さんの仮説が提示される。

脳は進化に最小限必要な程度の進化を遂げたのではなく、過剰に進化してしまった。

脳に関しては、環境に適応する以上に進化してしまっていて、それゆえに、全能力は使いこなされていない。

第二章「人間は脳の解釈から逃れられない」からは・・

「いま」は常に過去になる

改めて考えてみると、確かに、そうだなと思った。

目から入った情報は視覚野で解析される。

脳は「形」「色」「動き」の分析処理を独立に並行して行っている。この3つの解析にかかる時間が異なる。

リンゴが転がっている。

いちばん先に気づくのは「色」。「赤」に気づく。

次に「リンゴ」とわかる。「形」だ。

最後にわかるのは「転がっている」という「動き」の情報。

「色」に気づいてから「転がっている」と気づくまでの時間は、早くても70ミリ秒くらいの差がある。

ということは「赤いリンゴが転がっている」と一口に描写してしまったらウソ。

言われないと意識できなかった。

確かに、突然見たときなど、

赤い何か?リンゴだ!転がっている!

・・というふうに、順を追って捉えている。時間差はあるなー。

「上丘(じょうきゅう)」で見ている

視覚野の片方がダメになった人も、見えているかのように、振る舞うことができるそうだ。

目の情報を処理するのは、実は第一次視覚野だけではない。

視神経は視床で乗り換えられるのだけど、その直前で枝分かれして、「上丘(じょうきゅう)」という場所にも、目で見た情報が運ばれている。

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上丘で見ているものは意識には現れない。

それでも、障害物をよけたり、どこが光ったとか、レベルは低いけれども重要な処理能力を発揮できる。

上丘は処理の仕方が原始的で単純だから、判断が速くて正確。

野球のボールやテニスのサーブなどの剛速球をどう打ち返しているのかとプロの選手に聞くと「何も考えていない」と答えてくる。

これは上丘で見て判断している証拠。

上丘がなければ、野球やテニスというスポーツは成立しないだろう。

まったく知らない話だった。そうなのか。

人間の行動の大部分は無意識?

そしてまた「無意識」問題となる。

錯覚、盲点、時間の埋め込み、色づけ・・、目に入った光をどう解釈するかは「私」が意図的に行っているのではなくて、あくまでも「脳」が行っている。

「私」という存在は、脳の解釈を単に受け取っている受け皿。

人間の行動の中で意識してやっていることは意外と少ない。

見るという行為でさえも無意識だとわかった。

人間の行動の大部分が無意識かもしれないと想像されてくる。

「言葉」も「反射」という話もあった。

こうしてペラペラしゃべっているけれど、話し言葉には1秒間に大体2文字から5文字ぐらい入っているらしい。

これをいちいち、次は「つ」という発音だ。その次は「ぎ」だ、などと考えていたら、こんなふうにスラスラしゃべれるはずはない。

必ずしもすべてが意識でコントロールされているとは言いがたい。

むしろ「反射」に近い部分もある。

また、第三章「人間はあいまいな記憶しかもてない」の中では・・

記憶は「正確性」を排除する

えっ、なんで?という話だけど、とても納得できる。

パシャッと写真に撮ったかのように覚えることはコンピュータだったらできること。

少なくとも脳はそういうことをしてない。

むしろ、そこにある何らかの特徴とかルールとか、ともかく「パッと見」の下にひそんでいる基礎の共通項を自動的に選び出してくる。

今日の僕の姿をすべて写真のように覚えていたら、次回の講義の池谷は別人になってしまう。

違う服を着るし、髪型も変わっているだろうし、何年もたてば老ける。

100%完璧な記憶は意味がない。同じ状況はもう二度とは来ないから。

環境は絶えず変化する。

だから、人間は見たものそのものを覚えるのではなく、そこに共通している何かを無意識に選びだそうとする。

そして、第四章「人間は進化のプロセスを進化させる」では・・

最初に「効く薬ありき」だった

神経に直接効く薬として、アスピリンモルヒネ、麻酔などを出したあと、こんな話が出た。

神経の仕組みがわかったのはごく最近の話。

それよりもはるか以前から薬は使われてきた。

薬が効く、ということが前提としてあって、では、この薬は何をしているのか、というふうに科学者は考えた。

それを通じて体の仕組みが理解されるようになった。

つまり、薬は人体の解明に一役買ってきた、一種の「科学のツール」だったというわけ。

「薬学」と聞くと、薬を作る学部だと思っている人がいるけれど、「薬を通して体を知る」という基礎科学も薬学の大切な役割。

合間に入っていた下記の話も考えさせられた。

自分は「ほぼ」ガンになる

全体の死因のうち、ガンは3割。

ガンが治る確率が50%くらい。

再発率を考えずに単純計算でいくと6割の人は一生の間にガンになる。

だから、自分がガンになると思ってて確率的には決して間違っていない。

人間は「新しい進化」をしている

この指摘は驚いた。

いま人間のしていることは自然淘汰の原理に反している。いわば「逆進化」だ。

現代の医療技術がなければ排除されてしまっていただろう遺伝子を人間は保存している。

この意味で、人間はもはや進化を止めたと言っていい。

その代わり、自分自身の「体」ではなくて「環境」を進化させている。

環境を好み通り自在に変えることができれば、もう自分の体は進化しなくてもいい。そんなことを人間はやり始めている。

新しい進化の方法だ。

こういう考え方は面白いなーと思った。

ヒトの体は熱効率がいい

この比較も考えさせられた。

脳は、重さでいえば、体重のわずか2%程度しか占めていない。

でも、全身で消費するエネルギーの20%も使っている。

成人男性が1日2000キロカロリーを吸収しているとすると、うち400キロカロリーを脳が使っている。

もっと詳しく調べると、神経伝達物質の用意に80%が消費されている。

換算すると400キロカロリーは20ワット。

夜、寝室につける常夜灯が5ワットだから、自分の脳の活動は、あの黄色いランプ4つと同じ消費電力量。

ヒトの体は熱効率がいい。

こういう考え方はしたことがない。脳を少し客観視できて、面白いなーと感じた。

科学とは?意識とは?

最後は、なんというか、底が抜けるというか、考えたことのない話だけど、でも、とても共感できる話。

科学というのは「客観性」と「再現性」を重視する学問。

科学の俎上に、主観的な存在である「意識」を載せることはできるのだろうか。

科学は万能で、あらゆる宇宙の現象を解明できるように錯覚している人もいるけど、実際には、科学研究の対象にできる現象は限られている。

「科学研究の対象は限られている」という話。自分も「反証可能性とかいうけれど、世の中、検証不可能なことも結構多いよなー」と思っていたが、「限られている」とズバッと言われると、その通りだなーと思った。

リンゴを放したら地面に向かって加速して落ちるような、誰にでも再現できるような現象なら研究対象になるけど、再現性や客観性に欠ける「心」とか「意識」といった問題を、はたして科学が扱えるのだろうか。

科学ってかなり宗教的なもの。

「科学的」というのは、自分が「科学的」だと信じて、よって立つ基盤の中での「科学的」だ。

そう考えると、科学はかなり相対的で、危うい基盤の上に成立している。

・・なんだか、グラグラしてくる感じもする。

池谷さんの案内で、脳のことを考えることは、とても面白い。

サブタイトルが「大脳生理学の最前線」だけど、その「最前線」は、本当にいろいろと考えさせてくれる世界なんだなーと感じた。

宗教は人間の脳と相性がいい

何年も前に週刊文春の図書コーナーで紹介されていてすぐ買ったが、そのままになっていて、今になって読んだ。

仮想儀礼〈上〉 (新潮文庫)

仮想儀礼〈上〉 (新潮文庫)

仮想儀礼〈下〉 (新潮文庫)

仮想儀礼〈下〉 (新潮文庫)

話は下記のような感じ。

  • 元・都庁職員が生活に困り、相棒の男と宗教団体を立ち上げ、教祖になる。

  • 教祖はゲームソフトの原作者を目指していたことがあり、チベット仏教などもかじっていたので、なんとなく、それらしく、教えを説いた。

  • 最初は「悩みを抱える女性たちの話を聞く場」みたいな感じだったが、信用してくれた人が、自分の知り合いを紹介してくれたりして、徐々に拡大。

  • 信者やセミナー参加者の中には企業のトップとして活躍する人などもいて、「常に決断を迫られ、重い責任を背負う人々の、何か超越的な物にすがりつかざるを得ない孤独な心」を思ったりする。

  • 仏像、お香などの販売(「寄進」という名目)で収入が拡大していく。

  • 自宅や土地を持て余し、寄進したいという人も出てくる。

  • 上には上がいて、もっと古参の宗教ビジネス男から乗っ取られそうになる。

  • 信者からカネを巻き上げている、反社会的団体だという糾弾記事が出る。

  • 勢力は一気に衰え、残った少数の女性たちと共同生活へ。

  • 火事などを起こし、追いつめられたグループは逃亡生活へ。

  • 逃げる信者の兄が捕まえに来るが、グループで殺してしまう。

  • 相棒も喘息をこじらせて死んでしまう。

  • 警察に捕まり、懲役14年の判決を受ける。

・・という感じで、宗教団体の立ち上げから、絶頂、衰退から最後まで書かれている。

もちろん小説なので、全部つくり話なのだが、読んでいて「こんなにうまくいくわけない」みたいな感想はもたなかった。むしろ、「意外とこんな感じで始まってそのままやっている新興宗教とかありそう」と思ったぐらい。

脳科学者の池谷裕二さんの本にある通り、私たちは、脳のクセとして、「安定した、理屈の通った、理不尽ではない世の中」を望んでいる。だから、「世の中は、こうできている」「こう考えれば、すべて整理がつく」みたいな話が、脳の本能として好きなのだ。

そして、人は人が好きだから、「仲間とともに、真理に向かって歩む」という宗教団体の基本形も、心地よい。古今東西、宗教が発達するのは、こうした人間の性質によるものではないか。

自分にも、新興宗教団体の建物の中に入ったり、街で新興宗教の勧誘を受けて話を聞いた経験が、ごくわずかながらある。

建物の中の「怪しさ」「秩序や規律のなさ」はつっこみどころが満載だった。教義は、聞いていて、素朴な疑問がいくつも浮かび、しかも首尾一貫しているわけでもないものだった。

信者さんたちの中には、「そうですよね、あなたもそう感じますよね」といった感じで、そうした弱い部分の自覚ができている人もいたくらいだ。ただ、そこの場にいること、そこで群れていること自体が楽しいので、怪しさや、疑問は、気にならずにいる、という感じだった。

以前、「マインドコントロール」という言葉がとても注目された。「コントロール」というと、教祖が一方的に言葉巧みにたぶらかすようなニュアンスだが、実際は、むしろ信者側の「コントロールされるくらい、何かはっきりしたものを指し示してほしい」という思いもかなり大きいものだと想像する。それくらい、宗教的なことは、人間が好きなことなのだと思う。

なので、この小説のストーリーも、いかにもありそうな話だなーと思いながら、読んだ。

巻末に参考文献も記されていた。

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確かに、税金対策や、宗教法人の設立の難しさ、企業トップのカルトへの傾倒など、ディテールの詳しさも、この小説の脇を固めている。

宗教は、人間の脳のクセに、とても相性がいい。

・・そんな気持ちで、こわーい思いに何度もなる小説だった。

人の幸せに口出しするな

探偵ガリレオシリーズはやっぱり面白いと思って購入した。

ガリレオの苦悩 (文春文庫)

ガリレオの苦悩 (文春文庫)

探偵ガリレオ」「予知夢」のパターン通りでも、全然面白いけど、今回はまた進化する。

第1章は、痕跡を残さない手のこんだトリックを解くが・・実は「実験のいい加減さを話しちゃう、お茶目な湯川」という話。

第2章は、いちばん面白くて、金属を望み通りに変形させるトリックを解くが・・実は「恩師の、見えにくい本当の狙いをズバリ指摘する、人間ドラマ男の湯川」という話。なーるほどー、と、思わず、うなってしまった。

第3章の、ホリグラムを使った立体写真のトリックもいいが、短い話の中で、いかにもありそうなリアリティが見えて、印象深い話。

第4章も、水晶の振り子を使う中学生の女の子がうまく使われていて、湯川がウソを見抜くところが、またいい。

第5章の湯川への挑戦者の話。「超高密度磁気記録」を使ったトリックを見破るが、この話の挑戦者はちょっと変わった人過ぎる感じもした。

湯川の決めゼリフは今回もよかった。

「自分でやってみる」が一番大事

価値のない実験なんてない。

まずはやってみる。ーその姿勢が大事。

理系の学生でも、頭の中で理屈をこねまわすばかりで行動の伴わない連中が多い。

どんなにわかりきったことでも、まずやってみる。

実際の現象からしか新発見は生まれない。

実験してみる、行ってみる。会ってみる。マネて、書いてみる。

確かに、自分も、頭いい人ぶって、理屈こねまわしちゃいそう。気をつけろ!

幸せに口出しするな

神秘的なものを否定するのが科学の目的じゃない。

彼女は振り子によって、自分自身の心と対話をしている。

迷いを振り切り、決断する手段として使っているにすぎない。

振り子を動かしているのは、彼女自身の良心だ。

自分の良心が何を目指すのかを示す道具があるのなら、それは幸せなことだ。

我々が口出しすべきことじゃない。

「科学」の効力の限定性、というか、振りかざすものじゃない、という謙虚さ。湯川のこういう達観した感じも、とてもいいと、改めて思った。